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神田資料室

KANDAルネッサンス 31号 (1994.10.20) P.10〜11 印刷用
神田貼雑独案内16

石灰岩をトランクに抱いて上京したセールスマン 宮澤賢治

中西隆紀

題名のない詩
「雨ニモマケズ」という賢治の有名なフレーズには題名がない。
 手帳に多くの走り書きとともにメモられていただけだから、これを詩といってもいいし、つぶやきといっても、決意を書き留めておいたのだといってもいい。この手帳は賢治の死後しばらくたってからトランクの小さなポケットから発見された。トランクは「ザック」と書かれているから、おそらく帆布製で、中には原稿がぎっしり詰まっていたろう。しかし、死後整理にあたった弟も、ポケットまでは気がつかなかったという。
 このトランクは東京の神田で買ったもので、郷里から上京の際持ち歩いたものだ。通常は衣類など身の回りのものから法華経の経典やらノート・書類・原稿のたぐいが詰め込まれていたと思われるが、最後の上京となったこの日の中身はえらく重そうであった。

大都郊外の煙=神田
 昭和6年、賢治35歳。9月19日、まず上京のため仙台に宿をとる。隣室の客がうるさくて眠れない。翌20日朝4時発上野行の列車で東京着、午後神田駿河台の旅人宿「八幡館」に旅装を解いた。しかしながら、どうも体調がすぐれず、翌21日は39度の高熱でどうにも身動きができず、挙げ句旅館では医者を呼ぶは東京の知人に電話するはで大変であったという。賢治の体調はこの頃かなりの変調をきたしていたらしく、騒ぎが収まり独りになると机に向かって父母宛の遺書をしたためた。手帳にも次のような走り書きがある。
  
 昭和六年九月廿日
 再ビ
 東京ニテ発熱

 大都郊外ノ
 煙ニマギレントネガイ
 マタ北上峡野ノ松林ニ
 朽チ埋レンコトヲオモヒシモ
 父母共ニ許サズ
 廃躯ニ薬ヲ仰ギ
 熱脳ニアヘギテ
 唯是レ
 父母ノ意
 僅カニ充タンヲ
 翼フ

トランクの中身
 この時彼は神田の旅人宿で果てるかもしれないと思った。しかし父の厳命に従い寝台車で再び花巻へ帰っていく。以後、8年9月21日に亡くなるまで彼が上京することはなかった。
 それにしてもこの上京は何のためだったのか。その鍵は宿の人も気付かなかったトランクの中に隠されていた。何と40キロもあるその中身は石灰岩だったのである。
 彼はそれを花巻から引きずってきたのだが、幼い頃彼が「石コ賢さん」とあだ名されたことと無縁ではない。当時、中学生だった彼の部屋は鉱物の標本であふれていたという。星を眺めるのと同じように顕微鏡やらハンマーが友達であった。野や山へ出掛けては化石や鉱物を採集していたからだ。
 その彼の今回の上京は、砕石工場のセールスマンとしてであり、トランクの中には、石灰岩とセメントで大理石風に見立てた化粧タイル見本がいったいいくつ詰められていたのだろうか。冷たい石の地球のように重い塊を抱えてたどり着いた先は、結果、駿河台の病床であったのだ。

宮澤賢治・東京篇
「八幡館」を昭和8年の『東京市商工名鑑』で調べると、宿屋でもなく旅館でもなく旅人宿となっており、佐藤クラ経営、神田南甲賀町12とある。今の主婦の友の裏、ミズノ本社の向かいであった。
 賢治が初めて足下に東京の土を感じたのは誰しもが経験する修学旅行の帰りであった。大正5年、関西旅行の帰途、伊勢、箱根、東京を見物している。賢治20歳。

 神保町少しばかりのかけひきに
 やや湿りある朝日は降れり

 古書店の親父と少し話を交わしたらしい。
 大正7年末から8年3月初めまでは、当時日本女子大生だった妹トシを看病するため母と上京、雑司ヶ谷の雲台館に滞在。上野図書館や日蓮宗系国柱会を訪れている。この滞在中に神田で例のトランクを購入したらしい。
 大正10年、父と宗教上のいさかいから花巻を出奔。本郷菊坂に下宿、赤門前で校正係などをしながら国柱会の奉仕活動をする。8月トシ病気の報を聞き花巻へ。

商才なき石売り人
 大正12年1月、本郷に弟清六を訪ね、トランクに詰めた童話原稿を出版社へ持参するよう依頼する。
 大正15年12月ほぼ1カ月の滞在は、神田の上州屋(錦町3-19・現錦城学園裏)で、ここを拠点としてタイプライター・エスペラント語・オルガン・チェロを習い、築地小劇場・歌舞伎座など精力的に歩き回っている。
 昭和3年は上京後、大島へ渡る。
 そして死の2年間、最後の上京となったのが昭和6年の神田駿河台、たった9日間の滞在であった。今までで最も重いトランクの中身は、もはや原稿でもなければチェロの譜面でもない。商才なき賢治が石を売り歩く、その製品の販売先名簿に手をつける前に、赤いルビーのような、南国のエメラルドのような熱にやられて倒れてしまったのである。

宝石商になれなかった作家
 賢治は以前に次のように書いている。
「私の目的とする仕事は宝石の人造に御座候」私のやっていることは詩や童話のような絵空事だけでは有りませんと、賢治は父に必死で訴えている。神田の店で売っていた原石を研磨してネクタイピンなどの飾り石にし、ゆくゆくは人造宝石商をやりたいと計画表を作って、父に資金提供を訴えた。
「之によりて順次設備をも致し度実験をも重ね度と存じ候。その前期の仕事は即ち只今神田の水晶堂金石舎等の職業とする所にて随分利益もあり然もその設備とては極めて小なるものに御座候」(大正8年2月2日・父宛)
 水晶堂・金石舎は神田小川町に現存し、共に新店舗に建て替えられたばかりだが、10年程前に金石舎の旧店舗を見せていただいた折、店の床下に防空壕があったのを思い出す。もっとも昔は原石等も店頭に並べていたのだろう。しかしながら、賢治がこれ程までに鉱物の輝きに魅せられていたとは知らなかった。
 確かに作品をそうした眼で読み直してみると、赤・青・黄・様々な燐光を放ちながら宝石の名前が各所に散りばめられている。

藍晶石(らんしょうせき)の夜
「やがて太陽は落ち、黄水晶(シトロン)の薄明穹(はくめいきゅう)も沈み、星が光りそめ……(中略)……その黄金(きん)いろのまひるについで、藍晶石のさはやかな夜が参りました」(『まなづるとダァリヤ』)
 このように賢治にとって夕暮れは黄水晶、夜は藍晶石として描かれる。ところが「藍晶石の夜」とはどんな色なのか、誰しもそれが知りたい。そんな要望に答える美しいカラー写真をふんだんに折り込んだ書籍がある。板谷栄城著『宮澤賢治 宝石の図誌』平凡社。
 この本によると、作品には30を越す宝石が登場するが、それらは皆賢治の心象スケッチに欠くことのできない「心象絵具」なのだという。心象絵具とはうまい言い方だ。なぜなら、眼の前に20通りの深い青い絵の具があったとしても、あなたにとって最も深い青を一色選ぶことは至難の技だ。色というのは濁った色や対立する物がすぐ側にあって初めて美しいその性格を表すものだからである。
 ゆえに原石の瑠璃(るり)(ラピスラズリ)は瑠璃色よりも美しい。
 その美しく屹立(きつりつ)した天然を愛し、かつ天然の一部とも言うべき健康から見捨てられた賢治が、最後にトランクに詰めていた中身のことを考える時、寂寥(せきりょう)たる思いにとらわれるのは私だけではないだろう。




中西隆紀 フリーライター
1947年、大阪生まれ。多摩美術大学油画科卒。神田で『本の街』を創刊。『神田300年地図』発行。
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