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KANDAルネッサンス 33号 (1995.04.20) P.12〜13 印刷用
神田貼雑独案内18

森鴎外・青春前期(後編)——西周と鴎外のエンサイクロペディア

中西隆紀

百科の重さと軽さ
「百科事典」で「百科事典」という項目を探そうとしたら、実に情けない事に、その「ひ」の部分がステレオの重いスピーカーの下で悲鳴を上げているのを発見した。
 また悪いことに、そのスピーカーの上にも重いばかりが身上の、くだらないガラクタ共が意地の悪い顔をして足を投げ出している。こういう場合の本と、その収集人は、それが実態だから致し方ないが、ただの倉庫番でしかない。百科事典なんかただの知識の羅列じゃないか、とうそぶいてみても百科事典を軽蔑することは何処か淋しい。それは何だろうかと考えて、買ってくれた父を思い出した。
 親が常識を説く時、思春期の子供がそれに反発する時。それは何処か百科事典の教養主義的な重さに似ている。それは何処か百科事典の実用主義的な軽さに似ている。
 その重さと軽さを代表するのが百科事典であり、学校であり、親の経験にもつながる過去の歴史という言い方も出来るだろう。
 教養が重いと言っては楽しまず、実用が軽いと言っては逃避し、そんな青春は、折角父の買ってくれた高価な百科事典を漬物石同様の存在にしてしまったのだった。それは淋しいことだ。百科事典を軽蔑することはとても淋しいことに違いない。
 森鴎外が少年期を過ごした神田西小川町の西周(にしあまね)邸で「百学連環」(ひゃくがくれんかん)という講義が開かれていた。これは、百学、つまりたくさんの学問を総体的に解説しようとしたもので、百科事典につながるその基礎を築いたようなものであったようだ。

百科の重さで倒産
 近代的な百科事典を日本で最初に出版したのは、神田すずらん通りにある冨山房らしい。日本で最初の文庫本「袖珍名著文庫」もここから生み出されたのだから、その進取の気性たるや大変なものだ。
 当時、日本には組織的に体裁の整った百科事典は一つもなく、少しばかり知的と称する家庭にあっても「百科」とはいかなるものか知らなかったと、冨山房史は語る。
 現在の平凡社の百科事典で「百科事典」という項目を引いてみた。こうして見てみると言葉や事物に関して、過去にいかに多くの総合や体系が試みられていたかが分かり、何が日本で初めてなのか分からなくなる。
 いずれにしても明治初期の百学連環のような講義の時代から、実際に活字から本になるまでには相当な試行錯誤が有ったらしい。
 なにしろ百科事典と銘打てば大部は勿論、多くの執筆陣を用意しなければならない。費用も莫大。ために同文館は倒産、三省堂は破産の浮き目にあう。その間隙をぬって2巻本でうまくまとめ成功したのが冨山房の「日本家庭百科事彙」であったようだ。「本格的な」という名の元に、企画や教育は重すぎてはいけないことの良い実例であろう。

私塾「育英舎」
 鴎外が明治の啓蒙思想家西周の邸宅で寝起きしていたのは、鴎外が10歳から14歳の多感な時期であり、周りには、おそらくすべてが年上の、西を慕って集まった門下生が起居を共にしていたと考えられる。
 少年鴎外はここから一人で神田川を渡り、ドイツ語を学ぶべく本郷の進文学社へ通っていたから、かなり年上の門下生たちとは生活のリズムが異なっていた。
 彼ら門下生たちは欧米の知識を求めて、すでに著明であった西を慕って上京し、育英舎という私塾を開かせた者たちが中心であり、毎日英語、数学、国語、漢文などの講義があった。最初は浅草の鳥越三筋町であったが、翌明治4年8月22日、神田小川町広小路角屋敷に移転してからは、その長屋を舎屋にあてたという(『西周全集』解説)。
 前号で紹介したように、神田小川町と西小川町は隣地ではなく、かなり離れているので、このあたりの記述はいかにも現在の小川町辺りとも受け取れるが、解説の注に、神田小川町広小路角屋敷は後の住居標示では西小川町1丁目1番地とあり、現在の西神田であるということが分かるのだ。

児童と教育の輪
 ここで普通講義の他に特別講義が開かれた。これが「百学連環」である。
 その最初の頁にもあるとおり、百学連環はEncyclopediaを訳したものであり、ギリシャ語の「童子を輪〔環〕の中に入れ教育す」というところから名付けられたらしい。
 個人的には輪に入れるというのが学校や檻を連想させ、あまり好きではないが、連環というのは輪がつながっていて、ネックレスのようで可愛らしい。もっとも、ギリシャ時代は現在と違って、囲まれてあるということが安全と快適を意味し、その中で初めて児童は自由を満喫できたのかもしれない。
 ここで西は西洋で受けた講義を元に、独自の学問体系論といったものを展開していくのだ。まず学問を「普通学 Common Science」と「殊別学 Particular Science」に大別し、さらに殊別学を二つに分けて「心理上学 Intellecctual Science」と「物理上学 Physical Science」という風に分類した上で、哲学・法学、その他各学問とはいかなるものかを講義したようだ。
 エンサイクロペディア「百学連環」はしたがって、西洋風な百科的体系づけの最も早い時期のものであり、イギリスの小百科の翻訳「百科全書」が国家事業として計画される3年も前のことであった。

玄関横の小さな居候
 西小川町の西周邸にはこうした知識欲旺盛な若者たちがたむろしていたわけだが、そこで想像されるのは、鴎外少年の、家庭とは異質の環境が与えた影響のことである。
「おのれ若かりし日始て都に出てて、西周ぬしの家にありき。神田西小川町なる長屋門ある家の、玄関と応接所との間の部屋に起臥して、日ことに本郷壱岐坂なる進文学社といふ学校に通ひぬ。かくて月日を経ぬる程に、学問は周ぬしの教導を受けしこと多く、操行は夫人升子の君の訓戒を蒙りぬること数々なり」(『磯菜集』の鴎外の序文より)
 学問も操行も本来なら西ぬし一人で充分なはずだが、ここでなぜ升子夫人に多々訓戒を受けねばならないのか、若き弟子を抱える相撲部屋ならさしずめ親方夫人の道徳教育といったところだろうが、血気盛んな兄弟子たちの「ヰタ・セクスアリス」的な誘惑と、それを諌める夫人との間で小さな魂は揺れ動いたであろうことが想像させられる。東京に出てきたばかりの独り暮らしの居候、年齢はまだ10歳。田舎と大都会、そして子供の世界からいきなり舞台はもんどり打って大人ばかりの世界へ雪崩込む。静謐で重々しい学問の世界、思春期の変化する体と魂、その最初の衝撃ともいうべき西邸寄寓時代だが、鴎外がこの間の事情をほとんど語っていないのは残念だ。

明治日本と長屋門
 地図で見ると、西邸は南北に細長い角地にあり、「長屋門」があったと書かれているので、周は江戸からの大名屋敷をそのまま居宅としたのであろう。百学連環はこの屋敷の12畳の大広間で講ぜられ、当時は「特別講義」と呼ばれ、月に6回位、その折には座敷は聴講生でいっぱいになったという。
 この育英舎と百学連環は、西周邸で明治3年から続けられ、明治6年頃に塾生がだんだん退散して自然的に解消したらしい。
 一方、鴎外は明治5年に上京、西邸に寄寓、明治9年に東京医学校寄宿舎に入るまでだから、彼ら塾生との共同生活は1年あまりであった。鴎外自身は年少であったため百学連環講義は聴いていない可能性が大きいが、西周から受けた影響は大きなものがあったであろう。
 以後森鴎外は医学の道へ進み、西と同じく留学をはたしたのだが、もはや時代はエンサイクロペディア的知識の移入の段階から、鴎外や漱石の象徴的人格を借りて「明治日本とはいかなる時代であるのか」という呻吟を具現していったのであった。




中西隆紀 フリーライター
1947年、大阪生まれ。多摩美術大学油画科卒。神田で『本の街』を創刊。『神田300年地図』発行。
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