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KANDAルネッサンス 65号 (2003.04.25) P.10〜11 印刷用
神田仮想現実図書館25

ミスター「HONDA」若き日のガード下物語【後編】

オレの脳の中のエンジンに手を突っ込めたらもっとうまく行くと思うんだがなぁ
中西隆紀

 随想集『私の手が語る』(講談社)という本は、めくった最初が面白い。イラストで宗一郎のキズだらけの左手が載せられているからだ。一介の町工場から世界のHONDAを築き上げた男、本田宗一郎は根っからの職人であった。
 その、なぜ左手なのか。板金など作業中のハンマーは右手。すなわち左手は物を支える受け手に当たり、ちょっと見当が狂えば打撃の被害は常に左手に集中した。打撲の痕跡は全部で何箇所あるだろうか。まさに傷がこの男を語ると言わんばかりに、それぞれの傷跡にはコメントが添えられていた。(1)ハンマーでつぶした、(2)太いキリがここから入り、この辺に突きぬけた、(3)機械にはさまったキズ、(4)この爪は4回ぬけたなど全部で12箇所ほどもあった。
 そんな満身創痍の指のなかで、宗一郎は一点のジョークを添えた。「満足なのは、この小指だけ。べつに深い意味はない」と、こう書かれているが、その信じ難いところがジョークなのである。

「同じ苦労するんなら、先に苦労しろ」
「世界一でないと日本一じゃない」

 後年こうした言葉で後輩に叱咤激励の愛のムチを贈った宗一郎だが、永遠に少年の心を忘れない無邪気な遊び人といった印象も彼の一面だ。江戸東京博物館で開催された「本田宗一郎と井深大展」へ行った時。カーチス号とともに、幻のスポーツカー「S500」に再会した。この車はお台場の車の博物館にも展示されているが、最初見た瞬間から惹きつけられた。ことに後部サイドの曲線はこの上なく美しい。
 発売後海外でも反響を呼び、このSシリーズはあのスティーブ・マックィーンやグレース・ケリーもオーナーになったらしい。しかし後であるモーター雑誌を見ていたら、この車の後部サイドの曲線は宗一郎が芸者の尻をイメージして作ったのだとあった。この話がウソか本当か知らないが、デザインに関して本田は最後まで執拗にこだわったのは事実だ。これではちょっとイメージダウンにつながるな、と思ったら彼は自由奔放に遊びまくるタイプの人間であったことを忘れていた。彼は会社の金など使わない。まさに自分の身銭を切って遊ぶのである。並ではない。
 恐らくサービス精神が旺盛な社長が宴席で語った放言とも思えるが、車のボディはよく女性にたとえられる。
 
 世界企業へ躍進に至る以前、HONDAは町工場から二輪車でスタートした。
 そして、あの必死で築き上げてきたバイク・メーカーの成功に留まることなく、皆に嘲笑されながらさらに果敢に四輪車への挑戦というのもすごい。また、米国市場にまったくの後発で殴り込み、トヨタ、日産を抜きトップの座を占めるというチャレンジ精神。こうした攻撃的、先進的な発想の原点。そこにひとりの伝説的な男、創業者本田宗一郎がいた。その彼の活力はいったいどこから生まれてきたのであろうか。
 彼は鍛冶屋の子であった。彼が最初に見たのはこの火である。このあたりも何とも伝説的である。
「うちの親父は鍛冶屋だったが、(中略)小さな仕事場に、親父のピリピリする神経(情報)と、赤い炎(エネルギー)と、灼熱の鉄の塊(物質)とが一体になってまるで力強い生きものがそこで蠢いて、一つの新しいモノに変身するようだったよ。鍛冶屋の仕事は、これらが総合化されてリズムを生まなければ、絶対に駄目なんです。何時も、鉄が柔かく感じるワクワクするような何かがありました」(合田周平「活学の達人・本田宗一郎との対話」丸善)
 宗一郎の語録は天真爛漫に炎が入っているから実に活き活きとしている。
 ある時、東大のエライ先生に語ったことによると、彼はこんな夢物語を見るという。
「オレの脳はどうなってるんだろうね。エンジンの設計を考えていると、頭の中にエンジンができてドドドドッと動くんだよ。音も振動も感じるんだよ。そいつを鋳型に写して仕上げると、脳の中にあった時と同じ性能なんだね。だから脳の中のエンジンに手を突っ込めたらもっとうまく行くと思うんだがなぁ」「脳の中に手が突っ込めたら」。
 この言葉を聞いて東大のエライ名誉教授はコンピュータで脳の断層写真を撮ってさしあげた。見ると老化の兆しがまったく見られない。そこで、何万人に一人の稀有な才能の証拠と絶賛された。しかし宗一郎はけろっとして「オレは脳の中のエンジンに触りたいんで、写真で見せられても嬉しくないね」と言ったというのだ。

藤沢武夫、その父の神田
 藤沢武夫は宗一郎より四歳年下になる。幼い頃が病弱だった。元々藤沢家は結城藩の御殿医という家格の家系であった。武夫の父秀四郎はそうした環境に育ったから、家系の没落を事業を立ち上げることで挽回しようとしたが、失敗の連続であった。使用人や商売仲間のほうが世間というもを知っていたのである。だからだまされもした。武夫が生まれたのはそんな貧窮のどん底であった。やがて小学校へ上がる頃になると、父秀四郎は小さな広告会社を作りささやかな安定が生まれている。映画館の本編が始まる前に流すスライド広告の製作会社だった。その名も「実映社」。神田美土代町に事務所を設けた。神田は元々映画館発祥の地のひとつ(錦輝館)でもある。当時神田にあった映画館や、企業を歩いて営業して回った。藤沢武夫の父はここでも悲惨な運命が待っていた。関東大震災で会社が丸焼けになるのである。
 十六歳の宗一郎少年は震災という未曾有の天災以後、夢を倍加していくが、十二歳の武夫少年は生きているだけでありがたいと思わざるを得なかった。
「アート商会」の社長は焼け野原のなかでニュウビジネスを考えていた。焼けた自動車を安く買い入れ、これでひと儲けしようと考えたのである。
 芝浦のヤナセの倉庫には焼け爛れた車が山とあった。これを買い入れ、ボンネットをはがし、エンジンは使えるかどうかを点検する。使えるものはすべて使い、修理し塗装をかけて新車同様に仕立て上げるのだ。ところが20人もいた工場には宗一郎と兄弟子の二人だけ。みんな田舎へ引き上げてしまっていたのだ。
 使える車がほとんどなかったから注文が殺到した。彼は兄弟子と二人で黙々とこの作業をこなしたのであった。
 一方、武夫の父は焼けた神田の事務所を引き払い、大久保駅近くの映画館「大久保シネマ」の経営者となっていた。ところが不況のあおりをくって客は入らず、昭和3年早くも「大久保シネマ」は倒産した。
 ちなみにこの頃(昭和2年)神田には映画館が9軒もあった。ちなみついでに列挙しておこう。日活館(猿楽町)、東洋キネマ(神保町)、シネマパレス(淡路町)、神田館(小柳町)、神田キネマ(松田町)、南明座(神保町)、新聲館(神保町)、神田松竹館(柳原河岸)、日本キネマ(五軒町)。
 武夫は東京師範学校を目指したが失敗し、やっと見つけたのが筆耕屋の仕事であった。18歳の武夫は、両親とその借金が社会への門出であったのである。その後、鉄を商う八丁堀の「三ツ輪商会」に入ったが丁稚と変わらぬ薄給、月給が当時の日雇いの11日分しかなかった。
 ところが彼はまたたく間に昇級していく。ボロボロの自転車で得意先を回る彼の、誠実な営業を社長は横からじっと見ていたのだ。
 初任給15円が、3ケ月目に45円、そして10ケ月後に80円、1年後には150円を稼ぐようになっていた。こうした実績が認められ、社長が躊躇するすることなく次期後継者に指名したのは藤沢であった。こうして彼は経営の面白さを知っていく。33歳で独立し、日本機工研究所を設立する。
 ここの取引先に中島飛行機があった。ここの竹島技師から「本田宗一郎という天才的な叩き上げの技師がいる」ことを聞き、彼の家で本田と初めて顔を合わせたのは戦後のどさくさの時だった。もちろん軍需産業の中島飛行機も解散。かの技師と市ヶ谷の公衆便所でばったり出くわしたのがきっかけだった。その時天才本田の話になった。「よし会わせてやろう」ということになり、本田と藤沢の出会いが実現したのであった。こうして二人は後に世界へと歩みだしていくのだが、当時の二人にとってそうした晴れやかな未来は知るべくもなかった。
 宗一郎は後に「食うか食われるかのときだったから、私は、ひと目見て、これは素晴らしい奴だ」と直感したと語っている。

ガード下「昌平橋簡易食堂」
 この4連アーチのガード下に「昌平橋簡易食堂」が設けられたのは大正7年の11月のことであった。この年に起こった米騒動は各方面に深刻な影響を与えたが、これに何とか対処すべく立ち上がったのが神田慈善協会である。神田区選出の市会議員と区内の有志家で構成され、安く朝食と昼食を提供したから大衆はここに集ってほっと一息ついたのであった。また、苦学生養成のため、給仕、雑用人員を苦学生から採用し寄宿舎を設けて通学させるなど細かい配慮も忘れなかった。
 ここは震災後も営業を続けたが、ということは、本田宗一郎の時代にもすぐ横に食堂が存在したことになり。彼もここの椅子に腰掛けて安めしをたらふく胃に放り込んだことは間違いないと言っていいだろう。

参考文献
軍司貞則『本田宗一郎の真実』講談社
中部博『世界が俺を待っている・本田宗一郎伝』(集英社)、『本田宗一郎と井深大』朝日新聞社
本田宗一郎『私の手が語る』講談社
『人間宗一郎』エス・イー・エルインターナショナル
合田周平『活学の達人』丸善
『神田区史』神田公論社(昭和2年)





中西隆紀 フリーライター
1947年、大阪生まれ。多摩美術大学油画科卒。神田で『本の街』を創刊。『神田300年地図』発行。
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