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神田資料室

KANDAルネッサンス 86号 (2008.06.25) P.6〜7 印刷用
【特別寄稿】

神保町・中華街物語

——明治以降の神保町の移り変わり

傅 健興(ふう・けんこう)

 私は1947年(昭和22)、西神田にあった熊谷産婆院で生まれ、以来60年この神保町で育ち、生活してきました。子どもの頃の靖国通りはまだ都電が走り、交差点はロータリーになっており、車の通りも少なく、ロータリーの緑地は子どものよい遊び場になっていました。
 父は1926年(昭和元)、15歳で寧波(ニンポー)市より雑貨商の丁稚として日本に連れて来られ、とても苦労したようですが、戦後(1946年[昭和21])神保町2丁目の現在地に中華料理新世界を開店しました。当時、神保町界隈には40軒ほどの中華料理店が店を構えており、明治頃の賑わいほどには及びませんが、中華街のような面影をまだ残しておりました。

神保町に中華街があった頃
 1898年(明治31)、清朝の光緒帝らは、政府を立て直すためには日本の明治維新を手本にするのがよいと考え、日本や西洋の学問を学ぶために現在の北京大学の前身である京師(ケイシ)大学堂を創立、日本への留学を奨励しました。1902年(明治35)、講道館の創始者である嘉納治五郎は、中国人留学生のために弘文学院を創設。1904年(明治37)には、日本への留学生が一千人に達し、最終的には七千人もの留学生を受け入れたそうです。そして明治の後期には、他学校を含め五万人もの留学生が日本で学んでいたといいます。
 しかし、革命運動の高まりを恐れた清朝政府によって、1905年(明治38)、日本政府は「清国留学生取締規定」を発布。同年、欧米から戻った孫文が来日、日本を拠点として清朝への革命を企てます。当時、革命家としてすでに留学生の間で英雄的存在になっていた孫文は、激務で常に胃を患っており、よく通っていた中華料理店漢陽楼ではいつもお粥を食していたそうです。ほかの留学生たちは、淡白な日本の食事が口に合わず、中華料理店で安くて栄養のある豚の内臓や魚の煮込み料理を好んで食べていたようです。
 1917年(大正6)、周恩来元総理は19歳で日本に留学し、神保町に隣接した猿楽町に開校していた東亜高等予備学校で日本語を学びました。しかし1919年(大正8)、日本の対中対策に反発し帰国、後に欧州へ渡りました。
 周恩来をはじめ当時の留学生はみな建国精神に燃え、日本の明治維新を真剣に学ぼうと来日しましたが、経済的に貧しく食事もままならなかったため、神保町界隈の華僑の料理店は食事を安く提供し、生活の面からも留学生を支援していました。その結果、留学生の衣食住を賄うような中国の伝統的職業である料理店・洋服店・床屋・雑貨屋等が自然に神保町界隈に開店されたのです。そのため当時の神保町は、メイン通り(現在のすずらん通りからさくら通り)を中心に中華街の様相を呈していたようです。

京料理のルーツは中国料理にあり
 父の生まれた寧波界隈は上海より南に100kmの所にある港町で、魯迅をはじめ蒋介石、周恩来が生まれ育った場所として有名です。古くは飛鳥・奈良時代に、遣隋使・遣唐使が明州(寧波)を経由して都の長安(西安)に教典を学びにいく際の寄港地だったことで知られています。当時、九州から季節風に乗ると帆船は3日で寧波に着いたと文献に記されており、鑑真和尚をはじめ曹洞宗の開祖と仰がれ永平寺を建立した道元禅師、 臨済宗の開祖である栄西禅師、比叡山に天台宗を開いた最澄、室町中期の画聖雪舟もこの地に逗留しています。このように日本は寧波とのつながりがとても深く、文化の面でも多くの影響を受けていると考えられます。
 私がこれまで行ってきた料理の歴史研究からみると、寧波料理をはじめとする当時の中国料理にはまだ油が使われておりませんでした。ですからとても淡白で、日本から来た留学生や僧侶の口にとても合い、彼らが京の都に帰ったあとその料理法が広まり、京料理の基礎になったと考えられます。
 ちょうど昨年の12月から1月にかけて東京大学教養学部において「長い歴史から見た中国料理の移り変わり」をテーマに講義し検証した折、「京料理のルーツは中国料理にある」との考察を示したところ、先生方をはじめ学生に大変な驚きと興味と共感をもって受け入れられました。
 現在の京料理は、留学生や遣隋使・遣唐使が持ち帰った中国料理のレシピから日本人の洗練された感覚で千年以上かけて進化させ、現在のような完成された京料理に仕上がったと考えられます。一方中国では、戦乱のたびに料理文化が伝承されずに途絶えることが多く、そのまま近代に至っていると考えられます。また、新鮮な魚介や食材・発酵食品に恵まれている寧波では、素材を生かすシンプルな調理法が好まれ、複雑な調理技術が発達しなかったものと思われます。

一流の料理人を目指して
 私の子ども時代、父はすでに中華料理店を開いておりました。工作が大好きだった私は、金槌があるとどこでも釘を打ちつけて、そのたびに父から怒られていたそうです。将来は大工になることを夢見ていましたが、中学生頃からは建築デザインに興味が移っていきました。その後、デザイナーを目指して大学に進学したものの挫折してしまい、大学が休みの日には、父の知り合いの店で当時大繁盛していた銀座の揚子江菜館を手伝うようになりました。
 その頃マスターから「君は調理の素質がありそうだ。実家も料理店をやっているのだから料理人にならないか」と勧められました。母も将来は私が店を継ぎ、一流店になることを望んでおりましたので、どうせやるなら一流の料理人を目指そうと決め、当時、高級料理店として大繁盛していた銀座大飯店の調理人として本格的な修業に入りました。その頃大学生からの修業は珍しく苦労もしましたが、幸い子どもの頃から母の家庭料理を食べて育ったおかげで、皆が作りたがらない賄い料理を担当させてもらえることに。そのうちに料理長から評価され、鍋場に抜擢、料理長の食事番も担当させてもらえるようになりました。その時の経験が以後の料理人人生に大変役立ちました。
 その後、評判の高かった高級料理店赤坂山王飯店より誘いを受けたので店を移りました。その時にも料理長に恵まれ、宴会料理の真髄を学ぶことができました。しかしながら以前より私は、宮廷料理から進化した宴席料理よりも、家庭でのもてなし料理を作り上げたいと思っていたため、自由が丘の住宅街にあり、とても繁盛していた南国飯店より誘いがかかった時は喜んで移籍し、存分に腕を振るうことができました。その頃作っていた賄い料理から進化させた料理が、現在、新世界菜館の人気メニューである少子湯面(辛子そば)・大肉湯面(角肉入りそば)・中華風カレーライス等になっています。

神保町と3つの店
 1978年(昭和53)、父から店を譲り受けた後しばらくして、偶然神保町界隈が中華街の様相を呈していた時代があったことを知りました。とても興味がわき、自分もいろいろなジャンルの中華料理を表現したいと思っているうちに3店舗を構えることになってしまいました。そのひとつ「上海朝市」は、家族で気軽に食事を楽しんでいただける店として、また「咸亨酒店(カンキョウシュテン)」は、私を含めオジサンたちが寛げる隠れ家として、さらに「新世界菜館」は、大事なお客さまをもてなす店として、3店舗ともその時々のニーズに合わせてお客さまに楽しんでいただきたいという想いでオープンしました。
 かつて神保町2丁目・3丁目の表通りは、夕暮れになると明かりが少なく賑わいに乏しい感じでしたが、3つの店を開いたことにより表通りに光のポイントが出現し、少しは通りに賑わいと味わいを作り出すことができたのではないかと思っています。
 現在の神保町の街は、よそから来る人にとっては本の街としてのイメージが定着していますが、裏通りに入ると、かつての文豪や著名な作家・文化人がこよなく愛し立ち寄った喫茶店や料理屋が、昔と変わらずに今でも味わいのある佇まいで店を構え繁盛しています。装丁や紙にこだわる本づくりを支える製本・加工業者はもとより、様々な店がかつてと変わらずに営業しています。
 一時はバブルの影響で、若者たちが街を出て行くことが多かったのですが、近年この地で育った若者たちが地元に戻り、今の時代に合った形で家業を継ぐ人が出てきており、この街の伝統を守りつつ進化が始まってきているように思えます。
 街の潤いを保ちながら、味わいを失うことなく、むやみな開発は控える——。これが神保町のよさであり、この街の魅力を保つために必要なことだと私は考えています。これからはますます歴史と伝統を保ち続けている地域が見直され、そこで商いを続ける店の評価が高まってくるときです。神保町は、まさに伝統文化の宝庫といってよいのではないでしょうか。

参考文献
東京都千代田区編「東京都千代田区商工名鑑」1960。
王慕民他著、付英超訳「寧波と日本経済文化交流史」財団法人寧波旅日同郷会、2006。
内田直作「留日華僑経済分析」河出書房、1950。
「BS特集『世界から見たニッポン 明治編—第2回アジアの希望と失望』」NHK、2006年4月30日。



傅 健興(ふう・けんこう)
新世界菜館・上海朝市・咸亨酒店社長
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