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神田資料室

KANDAルネッサンス 89号 (2009.06.25) P.10〜11 印刷用
神田仮想現実図書館49

三菱岩崎邸物語

——ビルの陰に残る明治の赤煉瓦塀 グラバーからの贈り物は幻灯機

中西隆紀

 明治二十年、ニコライ堂はまだ建築中であり足場が組まれていた。その最上部に機材を持込み、そこから撮った有名のが上の写真である。
 左下隅に写っているのが、三菱三代目社長「岩崎弥之助」邸であり、中央真下の洋館が「三菱社」である。三菱財閥の東京の拠点は、実はこの駿河台から始まったといってもいいだろう。
海運から身を起こした三菱の創始者が、岩崎弥太郎であることはよく知られているが、前面で豪腕を発揮するこの兄を陰で支えていたのが弟の「弥之助」であった。そしてこの兄弟共通の最初の拠点が駿河台だったのである。
 その広大な屋敷跡は御茶ノ水駅聖橋口を出てすぐ目の前、以前日立製作所本社があった場所である。現在解体工事中だが、周囲を一巡して驚いた。その当時の岩崎邸の遺構「赤煉瓦塀」がまだ裏に残っていたからだ。
残る明治の赤煉瓦塀
 岩崎弥太郎は土佐出身。元々は大阪を拠点として、海運を手掛ける一商社として手を広げ始めている。それが東京へ進出したのは「政府御用」の大仕事を受注したからだ。拠点を駿河台に移すことになったのは明治七年だが、日本政府の台湾出兵がきっかけだった。
 この時政府は官船十隻の操業を民間三菱に独占させている。これが後の「海運王」三菱拡大の船出であり、これを契機に関西より拠点を東京に移し、最初一家は湯島梅園町に住む。
 その頃この駿河台の特等地は、後藤象二郎邸だった。それが岩崎家と関係を持つことになったのは、ふくらむ一方の後藤の借金と、弟弥之助の結婚が契機である。兄弥太郎はにがにがしく思いながらも後藤を援助していたから、象二郎はこの若き二人のために、屋敷の一部を新居として与えている。
 明治七年十一月、岩崎弥之助二十三歳、この屋敷の一郭に新居を持ったのは、後藤の娘早苗との結婚が縁だったのである。
 その頃、兄弥太郎が母に送った手紙には「するがだい、ゆしま、みなみな相かわりなく一同ぶじ」とある。当初は駿河台に弟、湯島に兄だったのである。


建設中のニコライ堂から浅草方面を望む。中央より下に写っているのが岩崎邸
(『神田まちなみ沿革図集』・KANDAルネッサンス出版部より)


 翌八年駿河台の弥之助に長女が誕生した頃、彼は兄から上海行きを命じられている。三菱蒸気船会社が国からの大きな助成を取り付けることに成功したからだ。今度は一挙に船舶18隻の無償払い下げである。
 こうした岩崎の海運独占経営の裏には弥太郎の接待外交があったのは事実にしても、日本が外国勢に対抗するには小企業の林立が政府にとって問題だったのもまた事実である。
 政府は三菱を強力に後押しすることによって、上海航路を開設させた。これに対抗したのが英米の船会社だったが、結局それを撤退させることに成功している。
 その後、この敷地(神田駿河台東紅梅町)はすべて岩崎家が譲り受けることになり、これを機に、長男弥太郎一家も湯島からここに越してくる。
 こうして駿河台邸は東(弥之助)と、西(弥太郎)、敷地内に兄弟の屋敷が並び立つことになった。
 これは明治十年に起った西南戦争で三菱が資産を大きく伸ばし始めた頃にあたり、その後汽船61隻を所有し、日本全国の汽船の70パーセント近くを手中に、海運界の王者に躍り出た時期と重なる。
 それから五年後は飛ぶ鳥を落とす勢い、当然のように兄弥太郎は上野不忍池の高台(下谷芳町)に独立した新居を構えることとなる。その後この暗闇坂に、今に残るコンドル設計の洋館(明治二十九年竣工、一般に公開されている)が建てられ、これが岩崎本家となる。
 こうして明治十五年、駿河台の敷地は正式にすべて弟弥之助の所有となっている。
 そもそも弥之助が兄の命でアメリカへ留学したのは明治五年のことだった。帰国後結婚、二十三歳で副社長になり、英語力を活かし上海へ雄飛、その後十年近く兄の参謀として支え続けたことになる。
 弥太郎没後、社長に就任したのは三十四歳の時だった。翌年には「三菱社」と改称し、この頃撮影されたのが先のニコライ堂からの写真である。
 この洋館の手前には岩崎弥之助の邸宅と広大な庭園が広がっていた。東陽堂の『新撰東京名所図絵』によれば、門の造りもいかめしいものでヒノキの一枚板がはめ込まれていたという。
後に三菱の四代目社長となる岩崎小弥太が生まれたのはこの駿河台邸だが、ここに長崎の異人から たびたび贈り物が届いていたようだ。トマス・グラバー、今も長崎の観光名所となっているあの有名なグラバー邸の主人だ。
 小弥太が箱を開けるとなかには「幻灯機」が入っていた。初代の弥太郎が死去した明治十八年に小弥太は神田錦町の学習院に入学しているから、おそらくその祝いであろう。
「ずいぶん珍しき品にて、一、二度楽しみ」その後「おばあ様へ写し絵をお目にかける」
 しかしこの時、横にもう一人の少年がいた。通称「トミー」、倉場(グラバー)富三郎、グラバーの息子である。グラバーは同じく学習院へ通わせるために、息子をこの屋敷にあずけ、その後上京し、終生三菱顧問として遇された。


右/グラバーの「雇い入れ届」(三菱資料館所蔵)
左上/岩崎邸門前の写真、左下/岩崎邸庭園図(ともに『新撰東京名所図絵』東陽堂より)


 一方十歳になった小弥太は、神田川をはさんだ向こう岸の東京高等師範付属小学校から中等科へ進み、父弥之助が日本銀行の総裁に就任した年に、第一高等学校に入学している。そしてその後、本郷の東京帝大からケンブリッジ大学とエリートコースをまっしぐらに歩んだ彼は秀才だった。
 こうしてその後、三菱を受け継いだのがこの四代目小弥太だが、彼は関東大震災で屋敷が崩壊するまでこの駿河台に住んだ最後の住人ということになる。だが当時、すでに屋敷は駿河台だけではなく高輪邸、鳥居坂邸など東京各所に散らばっていたから、震災後神田邸の存在意義はもはや失われていた。


中西隆紀 フリーライター
1947年、大阪生まれ。多摩美術大学油画科卒。神田で『本の街』を創刊。『神田300年地図』発行。著書に「幻の東京赤煉瓦駅—新橋・東京・万世橋」(平凡社新書)。
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