KANDAアーカイブ

神田学会
お知らせ 神田資料室 神田マップ 神田写真館 百年企業のれん三代記 神田の花咲かじいさん 出版物紹介 神田学会とは 神田学会資料請求 関連リンク Perspectives in English 神田アーカイブとは リンクについて 問い合わせ

百年企業のれん三代記

神田で三代以上のれんを守ってきた老舗にスポットをあて、初代から現在に至るまでの歴史を写真と文章でご紹介します。

印刷用

第10回 大木製薬株式会社

お話:17代目 松井秀正さん(記事公開日:2011年12月28日、文:亀井紀人)

■初代 大木口哲 (万治元年[1658]~)

 徳川4代将軍家綱の時代となる万治元年(1658)、琵琶湖周辺を拠点に行商していた近江商人大木口哲が、滋養強壮薬「大木五臓圓」を江戸両国広小路で売り出したのが始まりです。屋号は大木五臓圓本舗。江戸市中を3日間にわたって焼き尽くした明暦の大火(振袖火事)の翌年のことです。焼け出された江戸市中の再建のために材木など多くの物資が船で江戸に運ばれましたが、隅田川ほとりの両国広小路は荷揚げの重要な拠点として栄えました。富山の薬売りに代表されるように薬は行商が一般的で、当時としてはこのような繁華街に薬売りが出店を許されたことでも話題になったようです。五臓圓は蜂蜜、水飴に高麗人参など8種類の生薬を練りこんだ栄養補助剤で大変高価なものだけに、大名や豪商、上級武士に人気があったと言われています。
【大木口哲「『五臓圓』双六」】
 宣伝物の一つ。薬の商品情報を広く知らしめる手段として、このような双六の配布が用いられた。江戸両国米沢町一丁目の住所が見える(東京大学総合図書館蔵〔HPより〕)
【小林清親画「明治初年両国広小路 大木口哲本店之図」大平松木平吉版—右奥の看板に五臓圓の文字がある。人力車に電柱が明治初期らしい。】
 

■10代目 大木口哲

 初代から続いた五臓圓本圃は順調に推移し、明治維新後中国から生薬が輸入されるようになり、漢方薬の原料不足が解消され五臓圓も富裕層から庶民の手の届く薬となりました。明治元年(1868)大木口哲によって家庭薬卸問屋が開かれ、明治29年(1896)神田鍛冶町に大木合名会社を、大正元年(1912)には同じく神田鍛冶町に応用製薬株式会社(現在の大木製薬)が設立されました。薬品関連企業が集まった神田での創成期といえましょう。
【10代目大木口哲のポートレート】
【大木口哲本店(明治25年両国広小路)】

■11代目 大木良輔

 一般大衆に向けたユニークな引札(チラシ広告)の製作や、大木の取引先に向けての出版物として「薬店ニュース」「薬業界の動向」「応用タイムス」の発行と精力的に新しい情報を発信し続け、家庭薬の大木が確立された時代でした。
【11代目大木良輔のポートレート】
【大木合名会社(明治42年東京神田鍋町) 】
 

■12代目 大木卓、13代目 涌井一雄

 順風満帆に見えた大木製薬に危機が訪れます。グルタミン酸の味の素に対抗して、イノシン酸の「旨み調味料」の開発に会社を上げて取り組みましたが、純度にこだわった結果、開発に時間が掛かりすぎてコスト面で折り合わず、失敗に終わり、会社は私的再生措置となりました。大木製薬の永い歴史の中で最大の苦境に陥った時代です。
【12代目大木卓(左)、13代目涌井一雄のポートレート】
【昭和13年10月27日 神田鍛冶町大木合名会社本社ビル風景—前年(昭和12年)から始まった盧溝橋事件を発端とする日中戦争の最中、本社ビルに「漢口陥落」の垂れ幕が。翌年から第二次世界大戦が始まろうとしていた。】
 

■14代目 田中貞雄(昭和46年[1971]~)

 私的再生となり窮地に立った大木製薬に、会社再建のために大阪のロート製薬から送り込まれたのが、私の祖父にあたる田中貞雄でした。明治元年から営業を始めた大木の卸問屋業で、ロート製薬は一番の得意先であり、製薬業界全体としても実績のある卸問屋としての大木製薬を潰すわけにはいかなかったからです。貞雄はロート製薬がまだ山田商店と呼ばれていた創業期に、幼少の身で山田商店に丁稚で入った生え抜きで、常務取締役まで上り詰めた人物でしたが、当時の山田会長から、大木製薬の建て直しの特命を受けての出番でした。
 貞雄は着任してすぐに、それまで一つだった卸とメーカーの分社化に取り組み、卸を株式会社大木に、メーカーを大木製薬株式会社として、2つの会社の社長となります。全国に作った自社ビルを売るなど思い切ったリストラを行い、その後は新たな得意先向けの情報誌「大木ニュース」の発行や、幾つかのM&Aを。社内向けにはロート製薬にならって運動会や、社員旅行などによって結束を図り、結果会社を見事に立ち直らせます。
 昭和54年に(株)大木の店頭上場(現在のジャスダック)を果たし、昭和56年には会社設立100期を無事に迎えることができました。
【14代目田中貞雄のポートレート】
 
【「かがやく100期はばたけ大木」のスローガン幕の元で集合写真】
 

■15代目 田中貞文(昭和57年[1982]~)

 ロート製薬の常務と、大木製薬の2つの会社を社長として兼任していた貞雄は昭和57年、貞雄の長男で私の叔父にあたる田中貞文を大木製薬の社長とします。
 貞文はパソコンに詳しく、システム開発など会社の情報化や、新商品のテレビCM、ブランド戦略に取り組みました。
【15代目田中貞文のポートレート】

■16代目 松井秀夫(平成8年[1996]~)

 平成8年に貞雄の次女の夫である松井秀夫が、卸部門の社長に就任します。私の父にあたりますが、秀夫はそれまで小松製作所に勤務しており、労組で活躍していました。30歳の時、義父の貞雄からの誘いと同時に小松製作所からアメリカ留学の話が秀夫にあり迷いましたが、レールを敷かれたサラリーマンの道より苦しいだろうが、やり甲斐のある道を選ぼうと、大木への転身を決意したそうです。
 入社して早速、秀夫は卸の会社で自ら労働組合を作り、初代委員長になります。また異業種からの転身だった秀夫は、古くからの業界の慣習に捉われない新しい感覚で、2つの会社を大木グループとして大きく前進させます。自社工場中心の生産から、OEMも含めた商品アイテムを増やすなど幅を広げ、全国各地に物流センターを開設し、10社にのぼる薬品、化粧品メーカーとの業務提携、資本提携、またM&Aも積極的に推し進めました。自社商品開発としてはインフルエンザ用の高機能マスクの開発や、ケフィア(ヨーグルト)などの健康食品を、卸では韓国の人参公社の高麗人参を医薬品として扱うなど、2つの会社の活性化を図ろうと注力しました。
【16代目松井秀夫のポートレート】
 
【創業350周年記念式典の様子】

■17代目 松井秀正(平成23年[2011]〜)

平成11年に卸の(株)大木に入社し、ドラッグストアの店頭で1年間小売の勉強をし、本体のシステム作りに2年。その後マーケティングの勉強に、お得意先でもあるロート製薬に出向。(株)大木に帰って、再度上場会社に対応できるシステムのインフラ整備をしています。平成23年6月に父の後を継いで、大木製薬(株)の社長に就任しました。(株)大木の副社長も兼任していますが、今はメーカーとして商品開発に力を入れて売れる商品を作り、同時に売り方も検討して、メーカーとしての会社を確立させることが大事だと考えています。
【17代目松井秀正のポートレート—神田鍛冶町大木製薬ロビー、五臓圓金看板前にて】
 
●大木製薬株式会社
東京都千代田区神田鍛冶町3-3 大木ビル7F
電話:03-3256-5051
http://www.ohkiseiyaku.com/

戻る

ページの先頭へ
ホーム ホーム