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百年企業のれん三代記

神田で三代以上のれんを守ってきた老舗にスポットをあて、初代から現在に至るまでの歴史を写真と文章でご紹介します。

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第17回 宇津救命丸株式会社

お話:18代目 宇津 善博さん(記事公開日:2012年8月8日、文:亀井紀人)

■初代 宇津権右衛門(慶長2年[1597]生〜寛永15年[1638]没)

 宇津家の初代宇津権右衛門は、500年以上続いた下野の国(現在の栃木県)の国主、宇都宮家の御殿医でしたが、22代国綱の時代に秀吉の怒りに触れて、宇都宮家は取りつぶしとなり、慶長2年下野高根沢西根郷(現在の工場所在地)に帰農して庄屋となります。以来、農業の傍ら、村人の健康のために生薬「金匱救命丸」を創製しました。金匱(きんき)とは「貴重な」という意味どおり、後には一粒米一俵といわれたそうです。権右衛門はそのような貴重な秘薬を、村人には惜しげもなく無料で提供していました。
 宇津家の「秘薬」としての救命丸の創製については、宇津家の菩提寺である淨蓮寺の2度の消失によって系図類や貴重な古文書などを失っていますので、定かではありません。しかし、製薬に関する古文書が元和年間(1620年頃)ですので、少なくともそれ以前であることが推察されます。
 権右衛門の襲名は、これより私の祖父にあたる16代目まで続くこととなります。
【生薬の製薬で使われた道具類 左から練鉢、薬研(鉄製)薬容器(錫製) 宇津史料館所蔵】
【江戸時代、救命丸を献上していた一ツ橋家(徳川御三卿の一つ)が、下野の宇津家とはどういう所なのかと画家に描かせたもの。現在の宇津救命丸高根沢工場の所在地であるが、屋敷前の堀、入口左の松、中央の長屋門などは今も残っている。原画 茨城県立歴史館保存】

■3代目 重直・権右衛門 (万治2年[1659]〜元禄5年[1692]没)

 宇津家敷地内に薬師堂を建立したのが三代目です。
【工場の東南の一角にあり、江戸時代に人々が病苦から救われることを願って建立された薬師堂。栃木県高根沢町の指定文化財となっている。総ケヤキづくりで日光東照宮とほぼ同時代の建物で、薬師瑠璃光如来が奉られ、堂内天井を見上げると、龍の彫刻、牧野牧陸(ぼくりょう)筆の56枚の薬草の絵が描かれている】
【製薬信条と宇津誠意軒 宇津家の屋敷の一隅にある。秘薬としての金匱救命丸の製法は、「一子相伝」として代々長男だけに口伝で伝えられ、その調合をする時は製薬信条に従って斎戒沐浴し、製薬中は誰も近づけない誠意軒の中で行われた 】

■5代目 重上・権右衛門 (享保2年[1709]生〜安永8年[1779]没)

 宇津家五代目重上は、15歳の時江戸に赴き医学を修得しました。重上が当主となってからは、半農半医の家業の中で、より一層製薬に力を入れるようになりました。しかし、この時代に貴重薬である麝香(ジャコウ)・朝鮮人参などの原料が入手困難となり、宇津家の歴史でも最も苦難な時代を迎えることとなりましたが、重上が役所をはじめ薬種問屋筋などへの東奔西走の努力の結果、救命丸の製薬を続けることができました。このために宇津家では重上逸翁を中興の祖として称し、この事実を、宇津家7代目の重之が重上の業績を後世に残すため、「逸翁略伝」を記しています。
 また、近郷近在の人々に分け与えられていました宇津家の秘薬金匱救命丸は、優れた効能が次第に評判を呼び、関東一円から全国へと広がって行きました。江戸をはじめ各所の旅籠や造り酒屋などに置かれるようになり、施薬から置薬へとなって行きます。5代目重上の代から下野の国の領主となった一橋家に毎年救命丸を献上し、その事実を裏付ける古文書が数多く残っています。将軍を輩出する一橋家では、子供の健康に気を配っていたようで、それまで大人用として飲まれていた金匱救命丸を、特に小児用として使っていました。また、救命丸を大変重要視していたようで、万一切らしてしまった時のために、栃木から江戸まで順調に運べるよう、一橋家のちょうちんを預かっていました。一橋家から輩出された徳川家斉も、もしかしたら子供のころ、救命丸を飲んでいたかもしれません。
【5代目重上の肖像絵 宇津史料館所蔵】
【5代重上が、延享4年(1747年)御領主一橋家に金匱救命丸を献上したときの古文書 宇津史料館所蔵】

■15代目廉造・権右衛門(明治26年[1893]〜昭和3年[1928]没)

 廉造は私の曽祖父にあたります。日露戦争が終わり、世の中が落ち着いてきたころ、東京の最大手の薬問屋が高根沢の宇津家を訪れ、宇津の秘薬である救命丸を、もっと広く世に出したいとの申し入れがありました。この時より救命丸は、現在の流通システムに乗って販売網はいっきに広がり、新しい第一歩を踏み出すことができました。
同時に廉造は、当時栄養が悪く虚弱な子供が多かったため、なんとか子供たちの健康を守りたいという願いから小児専門の薬として、明治42年(1909年)金匱救命丸から宇津救命丸と名称を変えその後、株式会社として昭和2年に登記しました。社名は宇津権右衛門薬房。大正8年(1919年)東京神田に出張所を開設したのも15代目でした。
【雑誌広告、演藝書報 左・大正8年12月号右大正12年6月号 宇津史料館所蔵】
【大正時代の宇津救命丸商品 宇津史料館所蔵】

■16代目 薫・権右衛門(昭和3年[1928]〜昭和32年[1957]没)

 私の祖父にあたります。自宅は新宿区にあり、一番多いときは3世代9人住まいでした。優しい祖父母で、曾孫(私の子供たち)の面倒をよく見てくれていました。
 昭和6年(1931年)本社を麹町区飯田町一丁目(現在の九段南)に置き、昭和30年(1955年)社名を株式会社宇津権右衛門薬房から宇津救命丸株式会社に変え、その後、昭和34年(1959年)本社を現在の地である神田駿河台に移転しました。
【明治大正期の救命丸看板  宇津史料館所蔵】
【昭和8年東京日日新聞に掲載の広告 宇津史料館所蔵】

■17代目 廣(昭和32年[1957]〜昭和63年[1988]没)

 父の代では、広告に一番力を入れた時代です。各新聞社の系列テレビ局が出来た当初はテレビの広告費は大変安く、いち早く大量のテレビ広告を打ちました。おかげで、「あかちゃんの夜泣き、かんのむしに宇津救命丸」というキャッチフレーズは広く世に浸透していきました。広告宣伝は、テレビだけに留まらず、ラジオ、野立て看板、駅看板、列車の中吊りや、チンドン屋などあらゆることに取り組んでいました。それと薬を買うと景品としておもちゃが付いてくる特売があり、おもちゃ欲しさに商品の取り合いになったこともありました。当時の営業部長の仕事は、次の景品を考える程でしたよ。
 父の代で昭和36年に現工場を、昭和47年には宇津史料館が設立されました。
 父との思い出は、小中高と父も私も九段の曉星出身ですが、学校が終わると迎えに来てくれて、映画に連れて行ってくれたことや、勉強を教えることが好きでよく教わりました。ちなみに大学も二人とも東京薬科大学です。野球観戦が大好きで、昔の国鉄(現ヤクルト)の大フアンで、よく応援していましたね。
【右が16代目薫,左が17代目廣。工場のある上高根沢でのツーショット写真】
【昭和36年旧工場製丸室練合混合機 製丸機で丸にする前の工程で攪拌機で糊を作り、練合機の中の原料と混ぜ合わせたものを混合機で粘土状にしている風景。宇津史料館所蔵】
  

■18代目 善博(昭和63年[1988]〜 )

 この仕事を継ぐ決心は、長男として大学への進学を考え始めた時、父から東京薬科大学へ行きなさいと言われた時ですね。始めは抵抗がありましたが、祖父も父も同じ大学で学んでいましたので、次第にその抵抗も薄れてゆきました。しかし22歳で卒業し、会社に入ると業績が順調だったこともあり、始業時ぎりぎりに出社する社員が多数いたり、来ても新聞ばかり読んでなかなか仕事をしない。5時になると待っていましたと、いそいそと帰ってしまう。回りは全員自分より年上。しばらくの間、周りも自分も気を遣ってやり辛かったですね。
 そんな会社への反発は、当然父である社長へと向かいました。会社での父は完全な独裁者で怖い存在でしたが、そんな父に対して社長室で外にも聞こえるほどの大声でよく喧嘩しました。その中でも最大の喧嘩は、「宇津こどもかぜ薬」を即効性のある新薬として発売したいと私が提案した時です。生薬にこだわる父は猛反対。激しいやり取りがあった結果、新薬と生薬2種類作り発売することになりました。結局、軍配は新薬のほうに上がり、今や救命丸に負けない商品に成長するほどになりました。これがきっかけで父が私に社長を譲る結果になりました。二代目から続いた権右衛門の襲名は父の代から廃止し、新しい時代へと進みます。
【18代目善博ポートレート 神田本社ビルにて】
【父が社長を譲るきっかけになった「宇津こどもかぜ薬」】

■19代目善行(現専務取締役)

 私は大学進学時、父や祖父、曽祖父のように薬科大学大学は選ばず経済を選び、大学を卒業して当社に入るまで8年間、製薬会社、会計事務所など他所の会社で勉強させていただきました。入社して3年目ですが父と一緒で、社員は皆私より年上ばかりで、指示する苦労はありました。しかし400年を超える歴史のすごさ、先祖から培われた理念が徐々に理解でき、今歴史年表づくりをしています。同世代で職業の選択で迷っている人を見ると、私は継げる幸せを持っていたのだと思います。
 あるとき、営業と一緒に栃木の工場に行ったとき、町で地元の方と話をする機会があり、これも営業と、宇津救命丸の紹介をしたところ「宇津さんの工場がこの地域にあるとは知らなかった」という言葉にショックを受けました。そこで、まずは地元からと、工場の敷地内にある宇津薬師堂で、人々の健康を願い地元のお祭りとして江戸時代から行われていた一万燈祭を復活させようと、町長さんたちに協力を呼びかけて昨年は震災復興を願って祭りを行いました。ここに来れば、400年の歴史を見て頂ける建造物、史料館があります。宇津家の菩提寺でも2度の火災で大事な史料が焼失しましたが、お蔭様で宇津家は400年以上大きな災害に遭っていませんので、見てもらえる史料がいっぱいあります。先日、営業で保育園に行ったら、子供たちが大変可愛いんですよね。こんな子供たちの健康を守るものを提供する仕事に就けて、本当に良かったと思っています。これからは、このように工場から発信出来るものを増やすこと、少子化で子供相手の仕事は特に難しい時代ですが、安心、安全を基盤としてこれまでやってきた会社ですので、ご先祖の思いを忘れずに、これからは海外にも視野を広げ、活路を見つけて頑張って行こうと思います。
【19代目善行ポートレート神田本社ビルにて】
【19代目が力を入れる、上高根沢の地元工場内で2012年8月行われた一万燈祭のポスター】
●宇津救命丸株式会社
本社:千代田区神田駿河台3-3
工場:栃木県塩谷郡高根沢町上高根沢3987
http://www.uzukyumeigan.co.jp/

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