KANDAアーカイブ

神田学会
お知らせ 神田資料室 神田マップ 神田写真館 百年企業のれん三代記 神田の花咲かじいさん 出版物紹介 神田学会とは 神田学会資料請求 関連リンク Perspectives in English 神田アーカイブとは リンクについて 問い合わせ

百年企業のれん三代記

神田で三代以上のれんを守ってきた老舗にスポットをあて、初代から現在に至るまでの歴史を写真と文章でご紹介します。

印刷用

第19回 名倉クリニック

お話:7代目 名倉静さん(記事公開日:2012年11月6日、文:亀井紀人)

■初代 名倉直賢(1750年生〜1827年没)

 名倉家は古い家柄で系図や家伝を辿ってゆくと、「畠山」姓、そして「秩父」姓と遡ります。私は名倉家では20代、系図の上では42世ということですが、明和7年(1770)名倉家としては14代目にあたり、千住で骨接ぎの医業を創めた業祖は、直賢(なおかた)となります。よって直賢を初代としてお話を進めさせてもらいます。
 この頃から、千住の名倉と神田とは縁があったのですね。幼少のころから武術に興味を持っていた直賢は、柔術を神田の木村楊甫に楊心流を学び、剣術は新当流を学び、どちらも数年で免許皆伝となり、近郊の若者たちに指南するようになったといいます。この楊心流の元祖三浦楊心は元禄の頃、長崎の小児科医で医療を目的として柔術をひろめた人物でした。次には、武備心流という体術も学んだ直賢は格闘技の柔術というより、こうした柔術の中の医療に興味を持ち、接骨の術すなわち骨接ぎの術もこのような環境の中から学んでゆきました。直賢はさらに薬法を学ぶために、神田佐久間町にある幕府の医官多紀安叔の私塾(のち官営の医学館となる)に通い、治療師としての地固めをしました。 
 これから240年以上続く“千住の名倉医院”としての地位と名声の土台はここから始まり、その後5代目が創設する神田駿河台名倉病院、名倉クリニックの歴史もすべてここがルーツとなります。 
【業祖直賢。寛永3年生まれ、文政11年没】
【明治10年、明治36年に名倉家より東京府知事宛に提出された売薬関する願書(名倉家所蔵)】

■5代目 名倉謙蔵(1866年生〜1939年没)

 4人兄弟の長男として千住で生まれ育った私の祖父謙蔵は、東大医学部の前身である東大の別科を卒業し医師の資格を取得した後、昭和6年神田駿河台に西洋医学を取り入れた整形外科専門の病院を築き、初代の院長に就任します。整形外科は、これまでは外科で括られていましたが、祖父の代でこのジャンルを独立させたともいえます。神田駿河台にこのとき建てられた4階建て黄土色スクラッチタイルで外壁が覆われたこの建物は、その後74年間、平成18年に建て替えられるまで、この地のシンボリックな名建築物として親しまれました。祖父の思い出は、15歳で地元(千住)の紙問屋から嫁いできた祖母を大切にしていた愛妻家で、囲碁が好きな穏やかな人物でしたね。旅行が好きで祖母と3人で蒲郡に連れて行ってくれたこと、思い出します。
【5代目謙蔵のポートレート。神田駿河台の初代院長】
【森林太郎(鴎外)より謙蔵に宛てられた手紙。鴎外が大正5年名作「澁谷抽齋」を新聞に連載した折、資料として名倉家の系譜について教示を得たいと書かれた書面(名倉家所蔵)】

■6代目 名倉重雄(1894年生〜1985年没)

 謙蔵の子10人兄弟の長男で私の父となる重雄は、駿河台の病院建築にあたり、院内の設計の一部を担当しました。6代目重雄は、東大医学部を卒業後、名古屋大学医学部の初代整形外科主任教授、東京厚生年金病院初代院長を歴任し、昭和25年骨端症の研究に対し、日本学士院賞を授与しています。
 母は高橋是清の二男の娘で幼い頃学習院幼稚園から初等科まで香淳皇后(昭和天皇の皇后)様と同級生で、その後双葉女学校を出た後3年間ロンドンへ留学しています。今思えば留学のはしりだったのですね。父との想い出は、祖父と母と私の3人を一緒に欧米に連れて行ってくれたことです。国から父へのドイツをはじめとする欧米諸国への出張が決まったとき、愛妻家だった祖父が妻に先立たれ寂しそうにしていたのを見て、別立てで父が用意してくれました。戦前の飛行機のない時代でしたので、ローマまで船旅で40日程。2月に旅立って米国経由で11月に帰国しました。昔の旅はのんびりしていましたね。当時の出張は一人で行くのがあたり前でしたが、父は親孝行で家族想いだったのですね。
 戦時中、神田駿河台の病院は日本医療団と呼ばれる現在の厚生省に接収されていましたが、千住の本院も駿河台も運よく戦禍に巻き込まれること無く戦後を迎えます。
【昭和6年建設された4階建て黄土色のスクラッチタイルで覆われた神田駿河台名倉病院。重雄はここで働くことはなかったが、院内の一部を設計している】
【昭和35年名古屋大学医学部院長室にて執務中の6代目重雄氏】

■7代目 名倉 静(せい)(1925年生〜 )

 私は重雄の一人っ子として、生まれ育ちました。養子として迎えた夫は医師でありませんでしたので、父重雄が名古屋大学、東京厚生年金病院での要職に就いていましたその間、名倉の千住本院も神田駿河台も、3人の息子夫々が自立できるまで何人かの優秀な院長に託し、名倉の看板を守っていただきました。私の仕事は、その間の千住と神田駿河台の病院経営です。当時の厚生省の基準でベッド数19床以下の千住の医院はそれほど問題はなかったのですが、ベッド数20床以上となる神田駿河台の病院となると規制が多く、病院はライセンスを持った人たちの集まりの職場ですので、規約に沿った看護師、医者たちの人集めが大変でした。今でもそうですが、出入りが激しかったですね。整形外科専門の医師を確保するために苦労の連続でしたね。それでも、今は90歳に近い元看護師さんがいまして、この方は戦時中駿河台が接収されていた頃からずっと70歳を越え自ら身を引くまで駿河台と千住で働いて下さいました。嘗ては千住に年老いた下足番のおじさんもいまして。患者さんも年寄りが多いので、同じ人がいつもお相手してくれることは安心感を呼びますね。
 父に感謝していますのは、一人っ子の私に対して、一貫して干渉せず自由にしてくれたことです。他人にも同様で、厚生年金病院を退任した折、それまで社宅住まいだった牛込から千住に父が帰って来ましたが、周りの人たちが驚くほど医院について細かいことには一切関知せず、当時の院長に任せてくれていましたね。
 跡継ぎとしては、3人の子供が皆整形外科医になってくれました。長男の直良は個人診療所を立ち上げ、次男の直孝が千住の本院と駅前の院長を、3男の直秀が神田駿河台の8代目として院長を継いでくれています。
 私がこの仕事を継いでよかったと思えるのは、前にも述べましたが父の存在が大きいですね。拘束されず、自由に考えることが出来ました。これからは、いかに維持して行くかですね。
 240年以上も続けることが出来たのは、名倉が患者さんをどこまで診れるか、診れないかを見極めて、無理をしない、囲わない、無謀な冒険をしなかったことではないかと思います。
【7代目静さんのポートレート 自宅にて】
【画像上:千住名倉医院の門。江戸時代から昭和中期まで盛業時の医院の佇まい。昭和59年足立区登録記念物(史跡)となっている。原建物は、将軍家鷹狩りのとき、休見用に作られた長屋門。嘗ては、門前の広場には、駕篭や戸板で運ばれてくる患者が日に700人もひしめき、名医の評判で活況を呈しました。画像下:この奥が静さんのお住まい】

■8代目 直秀 (1954年生〜 )

 生まれも育ちも千住です。幼い頃から周りの大人は医者ばかりの環境で育ちましたので、医者になるのは当然と思っていましたが、中学、高校時代は勉強そっちのけでサッカーに明け暮れていました。見るに見かねたのでしょう。長男の直良兄さんから「いいかげんにサッカーはもう止めて、医学部受験の勉強をすべし」と言われ、はたと気づきました。サッカー部を退部し、それからは医学部を目指して受験勉強をして、聖マリアンナ医科大学に入学。入学してすぐに大学のサッカー部に入部しました。当時はなによりもサッカーが好きだったのです。
 現在は、神田駿河台クリニック院長として毎日沢山の患者さんを診ています。症状で多いのは、腰痛、首の痛み、膝の痛みですね。診療で心がけているのは、誰にでも分け隔てなく接するようにしています。地位の高い方もいらっしゃいますが、そういう方でも常に普通に接しています。
 仕事での喜びは、患者さんから治ったときのお礼の言葉や、手紙をいただいた時ですね。8代目を継いでよかったことは、名倉の伝統を守り、次の代に残せることでしょう。私の子供は2人とも娘ですが、一人はもう既に整形外科医として他院で就業中です。名倉が240年以上続いた理由は、間違った医療をしていないこと、出来る範囲を守ってやってきたこと、贅沢をしないことにつきると思います。私は6代目の医師としての祖父を見て育ちましたので、自然と身について行ったようです。
 神田で開業している医者の先生たちとの交流会がありますが、千住にはないフレンドリーな良さがありますね。皆お祭り好きで、オープンマインド。患者さんの気質も土地柄でしょうか、せっかちな神田っ子が多いですが、でも楽しいですよ。
【8代目直秀のポートレート。神田駿河台クリニック1階ロビーの6代目重雄像の前で】
【平成18年落成のNKビルと1階のクリニック。以前の建物の面影を残すように、外壁の一部に黄土色のスクラッチタイルと庭の灯篭と植栽】
●名倉クリニック
千代田区神田駿河台4-2-5 御茶の水NKビル1F
TEL:03-3251-5171

戻る

ページの先頭へ
ホーム ホーム