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百年企業のれん三代記

神田で三代以上のれんを守ってきた老舗にスポットをあて、初代から現在に至るまでの歴史を写真と文章でご紹介します。

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第20回 株式会社 いろは

お話:4代目 目崎 裕隆さん (記事公開日:2012年12月10日、文:亀井紀人)

■初代 目崎弥善(やぜん)

 新潟出身の祖父の兄、弥善が明治22年(1889年)この地神保町で寿司屋を開いたのが始まりです。屋号は「いろは寿司」。手習いで始めた商売だったので、そこから取ったと聞いていますが……。
 弥善は12人兄弟で、新潟から上京する弟、妹(義弟)達の多くが暖簾わけのような形で三崎町、御徒町、上野駅ガード、本郷に「いろは寿司」を出店していました。
【2階建ての木造だった店舗。現存で一番古い店舗の写真。いろは寿司の暖簾の右側は、佃煮の売り場だった。昭和25〜30年頃】

■2代目 米蔵(〜昭和37[1962]年頃没)

 初代の弥善には子供がおらず夭折しましたので、当時は淡路町で天麩羅屋をやっていた私の祖父にあたる四男の米蔵が、神保町の店を継ぐことになります。12人もいる兄弟の中から四男の米蔵が後継者となった経緯は、弥善と米蔵の妻同士が姉妹であったこと、つまり弥善の妻の妹が米蔵の妻であったことが大きかったのでしょう。
 祖父と祖母との思い出は、幼い頃は一緒に寝ていましたし、大変可愛がってもらいましたので、たくさんあります。昭和30年代、3階建ての建物の1階は店で、2階が住まいと事務所、2階の一部と3階が2段ベッドの従業員の宿舎でした。30人くらいいる若い人たちに、祖父が接客や仕込みから魚のさばき方までよく教えていました。
 当時は、年中無休状態で大変忙しかったですね。特に年末年始がかきいれどきで、店の休みは1月15日ごろと8月のお盆の2日だけでした。住民も多かった時代ですので、出前だけで6〜7人が配達係り。自転車も10台はありました。皇居の宮内庁まで出前していましたね。
 働き者の祖父は、築地の魚河岸に仕入れに行くのが楽しみで、毎日行きましたね。昔は冷凍技術がありませんので、足繁く何度も河岸の売り場を回り、少しでも良い品を安く買おうとしていました。築地までは往復タクシーを使っていましたが、祖父はいつもタクシーを選んで乗るのです。空車が来て止まってもすぐに乗らず、気に入った車が来るまで待っていました。何にこだわっていたのかは未だに謎です。
 あと、私が5月5日生まれですので、誕生日に本物の兜をプレゼントしてくれたこと、思い出しますね。静かで、温厚な祖父の一番のお気に入りは将棋と相撲で、将棋は三崎町で料理屋をやっていた三男とよく指していました。相撲は当時「大関・松登」のフアンで、相撲を観に国技館にはよく連れて行ってもらいました。
【左が寿司店、右がキッチンA1・エーワン。昭和30年頃】
【2代目米蔵氏の仕事場でのスナップ】

■3代目 隆司(大正11年[1922]生〜平成9年[1997]没)

 米蔵の子、5人兄弟の長男が3代目の私の父です。父は根っからのスポーツマンでした。若い頃から、乗馬、スキー、ゴルフと、人脈に恵まれて当時まだ誰もやったことのないスポーツに打ち込んでいました。乗馬は戦争がなければ、オリンピックの日本代表になっていたと聞いています。スキーは戦前ドイツからの親善隊の学生と一緒に日本代表として滑ったとか。エピソードは尽きませんね。
 戦時中は学徒出陣で召集され、海軍の水上飛行機のパイロットでした。父のスポーツ好きは、きっと海軍時代に西洋文化をたくさん吸収したことにもあると思います。
 戦災で店を焼け出された後の復興は、父によって木造2階建を再建しましたが、しばらくは、食料品の統制で寿司屋としての食材が思うように手に入らなかったのでしょう、その間、佃煮屋をやっていました。
 昭和24年に「株式会社いろは」にし、社名から寿司の文字が消えます。ちょうどそのころから父が一番やりたかった、デパートのお好み食堂のスタイルで、寿司、天ぷら、うなぎから洋食まで何でも好きなものが食べられる店づくりに着手しました。屋号も和食は「いろは」、洋食は「A1・エーワン」として、レジを真ん中に左が和食、右が洋食という今では風変わりな店内でサービスをしていましたね。祖父がフアンだった「大関・松登」を、洋食の「エーワン」に連れて来たこともありました。いい思い出です。
 父の魚河岸での仕入れは、安くて良い品を捜して歩いた祖父と違って、馴染みの仲買さんに一括任せでした。空いた時間は、専門店会や神田のれん会、商工会議所、ライオンズクラブ等、たくさんの会合の役員で忙しくしていました。あとはゴルフ。家には父が獲得した優勝カップが山ほどあります。店のやり繰りは専ら母がやっていましたね。おかしな話ですが、社長の父が店の金庫が開けられないし、銀行にも出向かない。
 全部母がやっていたんです。商売が順調だった証拠とも言えますが。
【3代目隆司とにぎわう店内。にぎり一個10円均一の札も。昭和40年頃ビル化して1階から4階までお好み食堂ビルとなった】
【建設中の仮営業の店舗と完成した「神保町いろは」お好み食堂ビル。昭和40年頃】

■4代目 裕隆(昭和23年[1948]生〜 )

 正確には、父が亡くなった平成9年から16年までは母が代表で、私は母の死後平成16年からの就任です。学校を卒業してからずっと仕入れから仕込み、配膳と出前もやりました。現在のビルの前のビルでは、2階から4階まで父のお気に入りの「お好み食堂」でしたので、帳場にいると多種多様な要望が来て交通整理で大変でした。洗い場が近かったので洗いもしたし、なんでもやりました。専ら裏方の仕事に専念していましたね。
 今は時代が大きく変わり、お客様の嗜好はお好み食堂から専門店に向いています。昭和の最後の年に建てた神保町いろはビルの地下と竹橋のパレスサイドビルで「いろは」の原点に戻って寿司の専門店をやっています。神保町の1階と2階は弟がイタリアンと和食をやっています。町も様変わりし、貸しビルの一階が空けば安いファストフードの店が竹の子のように増えるし、回転寿司や立ち食いの店も増え、たくさんあった住宅や印刷などの家内工業主からの出前も減り、飲食店を取り巻く環境はかなり厳しいものになっています。それでも4代目の私は幸せなことに、祖父と父と一緒に過ごせたことで戦後から現在に至る飲食業の目まぐるしい変遷を、見つめ知ることが出来ました。
 今、少しでも地域のお役に立てたらと、町の先輩諸氏と一緒に出身校の錦華小学校(現、御茶ノ水小学校)の同窓会の役員をやっています。
 5代目となる28歳の長男の智隆が昔の私と同じように、店のこまごまとした雑務を手伝い修行中です。商売を続け、暖簾を守って行く上で難しい困難な時代ですが、地域に育ててもらった「いろは」を、若い感性で時代にあったやり方で乗り切ってくれるよう願っています。
【4代目と5代目裕隆氏、智隆氏。神保町いろは寿司店内にて】
【現在のいろはビル(上)と店看板(下)】
●株式会社 いろは
住所:千代田区神田神保町1-10-1 IVYビル

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