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百年企業のれん三代記

神田で三代以上のれんを守ってきた老舗にスポットをあて、初代から現在に至るまでの歴史を写真と文章でご紹介します。

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第23回 廣瀬ビルディング株式会社

お話:3代目 廣瀬元夫さん(記事公開日:2013年4月9日、文 亀井紀人)

■初代 廣瀬與兵衛(よへい)(慶応元年[1865]生~大正15年[1926]没)

 明治13年、近江出身の私の祖父、與兵衛が神田錦町河岸で薪炭(しんたん)業を興したのが始まりです。古くから薪炭(まき・すみ)は生活に欠かせない重要な熱源でした。人口が集中する東京への輸送の利便性から、錦町河岸のような神田川、日本橋川に面した地域に薪炭業は発展したのです。
 平成24年初秋、私の甥の貴一君が、與兵衛の出身地である近江今津村まで出向き、調査の結果、廣瀬家の本家は今も健在で、戸籍簿を見ると與兵衛は廣瀬半左エ門(文政5年[1822]生)の三男坊であったことが判りました。江戸期に既に廣瀬姓を名乗っていた與兵衛の神田錦町河岸の屋号は、廣瀬與兵衛商店。
 初代の努力のお陰で、廣瀬與兵衛商店はその後、東京の五指に入る薪炭問屋へと成長します。
【初代廣瀬與兵衛のポートレート】
【錦橋のたもとの廣瀬炭店。 戦災で大事な写真、資料の大部分が焼失。僅かな資料の一つ、当時の面影を留める絵柄の手拭い】

■二代目 廣瀬與兵衛(明治24年[1891]生~昭和41年[1966]没)

 父は政友会代議士、長谷川豊吉の六男に生まれ、幼名を勉と言いました。若くして薪炭問屋廣瀬與兵衛商店の養子となり、二代目として與兵衛を襲名し、燃料関連の仕事に就きます。昭和10年頃の日本の一般家庭では、木炭、石炭、薪(マキ)などが燃料の主流でした。第二次世界大戦中、家庭用燃料は統制を受け配給制となり、昭和18年家庭用燃料を配給するため地区単位にあった組合を統合。そして、東京都燃料配給統制組合を設立し、父與兵衛が初代理事長に。戦後になって組織変更の後、東京燃料林産株式会社(東ネン)の社長に就任します。その後、戦後間もない昭和22年、全国の業界の方々のご支援で、第一回の参議院選挙に高点で当選。昭和26年には参議院の代表として、吉田茂首相を筆頭としたサンフランシスコ講和会議にも行き、また文部政務次官を勤めました。
 晩年は好々爺の父も、私が子供の頃は大変厳格で時には体罰を喰ったこともありました。物を粗末にすること、時間を守らないこと、ダラシの無いこと等、特に無駄を嫌い、自分を律することに厳しい人でした。人生は「工夫と努力」が口癖で、物事を先へ先へとしないと気に入らないので、後年短い間でしたが父と一緒に仕事をしたときには「段取り」に随分気を配りました。神田の家が戦災に遭い、戦後の私の中学生時代は、疎開先のまま住み着いた鎌倉の別荘の庭で、兄弟とも家庭菜園の労働に厳しい日課を課せられたものです。
 節約家の一面ハイカラ趣味もあったようで、昭和の早い時期から東京商工会議所の常議員仲間とゴルフに興じたり、自宅では洋風の生活で、二階にサンルームを造ったりしていました。一方謡曲、仕舞は晩年まで続けたようです。
 父と一番接触が多かったのは、大学時代の3年間代議士だった父の秘書を勤めた時でした。それは私に社会勉強をさせたいのが目的だったようです。好奇心の強い年頃でしたから、興味のある委員会には衆議院のほうまで傍聴に出かけ、その頃塔屋にあった国会図書館に通ったり、議事堂にいるのが愉しくて同世代の学生とは違った青春を過ごしたように思います。
 秘書の給料は凡てお前の貯金にするから、と小遣いは決して充分使わせてくれず、不自由な思いをしましたが、卒業後、それを就職した銀行の株式の購入に当て、結果的には後にそれが私の大切な資産になりました。
 昭和33年、東燃の会長を65歳で退いてからは、後事を四男の私の託しましたが「自分は燃料界を離れては何の意味もない。今日の廣瀬の成長は業界のためである」として、自分の育てた全国燃料会館や出身地東京業界の斜陽化を心配していました。急逝する半月前、虫が知らせたのか私を呼び、東京燃料問屋協会ならび東京都燃料小売商業組合に多額の寄付を命じられ実行しました。寄付の完了の報告を聞いて、昭和41年鎌倉の自宅で静かに亡くなりました。常に燃料業界と家庭を大切にし、子供の将来を思ってくれた父でした。
【画像上:2代目與兵衛のポートレート。画像下:昭和30年代の東京燃料林産株式会社社屋の一部。現在の錦町東ネンビルの場所】
【廣瀬與兵衛商店のあった錦河岸(神田錦町3丁目17番地)は、現在廣瀬ビルと東ネンビルになり、東ネンビルの1階は現在、東京燃料林産株式会社のショールーム炭屋となっている】

■3代目 廣瀬元夫(昭和6年[1931]生~ )

 私の生まれは東京市神田区錦町で、四男として生まれました。大学在学中に参議院議員となった父の秘書を勤め、卒業後、銀行に8年勤務しましたが、健康に不安を感じた父の要請で仕事を引き継ぐため急遽銀行を退社しました。3人の兄たちもいましたが私が家督相続人となったのは、厳格な性格の父に対して兄たちは避けていましたが、何故か私はそんな父の元に飛び込んで行くことができ、可愛がられていたのが大きな理由と謂えましょう。
 家督を継がなかった兄たちは夫々、立派な人生を送ってくれています。
 父は以前関係のあった会社に使用させていた錦町河岸の本籍の土地を回復することが気がかりなようでした。私は家督相続人として祭祀を主宰し先祖の菩提を弔う一方、不動産を廣瀬ビルディング株式会社に集約していきました。そして父は、権利関係を整理し、本籍地のビル竣工に努めるよう指示し、私に全てを任せてくれました。ほどなく父は療養生活に入りましたが、私は燃料関係の仕事の傍らビルに関する訴訟を提起。その公判維持のための書類を整理し、証人出廷などに全力で対処しました。父の死後(昭和41年、私が34歳のとき父は75歳で永眠しました。)昭和43年に本籍地の権利関係を整理し、和解を有利な条件で成立させました。
 昭和46年には、戦災前の本拠地にビルが竣工。先代の意思を死別後5年で果たすことができました。30歳からの10年は世代間のぎりぎりの引継ぎを果たすべく本当に危機感を持って働いた時期でした。
 薪炭問屋であった廣瀬與兵衛商店は、父の代から形を変え燃料の組合組織になり、現在は四代目となる次男の直之が社長の東京燃料林産株式会社となって、その本社ビル1階のショールームで日本が誇る炭の文化を発信しています。
 先祖の残してくれた錦町は、私にとってかけがえのない大事な場所です。現在私の住いは四番町ですが、本籍は錦町3-17で年賀状には廣瀬本家、本籍地と入れています。仕事も安定しましたので、燃料業界や地域社会の約20件ほどの諸団体のお世話をして今日に至っています。今後は次世代の育成に努めたいと思います。
【3代目の命名は、犬養毅首相。上段が父與兵衛に宛てた命名ための候補名を幾つか書いた手紙。元夫は長男のような名だが……とも。下段は同じく犬養毅首相から後日届いた元夫の命名の書】
【画像上段:昭和12年ごろ錦町の家前での家族写真。上段、父母と長兄。下段左から2番目が3代目元夫。画像中段:左が父の遺言を実現した本籍地に建つ廣瀬第一ビル。右上が廣瀬第二ビル、右下が廣瀬第三ビル。画像下段:左が3代目元夫、右が4代目直之のツーショット(東ネンビル1階のショールーム炭屋にて)】
●廣瀬ビルディング株式会社
千代田区神田錦町3丁目17番地
電話:03-3291-0001
http://www.hirose-building.jp/

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