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百年企業のれん三代記

神田で三代以上のれんを守ってきた老舗にスポットをあて、初代から現在に至るまでの歴史を写真と文章でご紹介します。

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第26回 揚子江菜館

お話:4代目 沈 松偉さん(記事公開日:2013年7月22日、文:亀井紀人) 

■初代 周 所橋(しゅう しょきょう)(明治20年[1887]頃生)

 神田の町を歩くと、中華料理店の多さに気づかれると思いますが、特に本の街と云われる神保町には老舗の中華料理店が多いのです。その理由を知るには、当店の初代が揚子江菜館を開業した100年以上前の時代に遡ります。
 清朝末期(1860年~1890年)、清国では弱体した国力の再建のため、西洋近代文明の科学技術を導入しようと「洋務運動」が起きました。日本の明治維新を手本にと、数多くの中国人留学生が日本や西洋の学問を学ぶため、日本へと海を渡ってきました。         
 当時革命家として留学生の間で英雄的存在だった孫文や、魯迅、周恩来も学んでいる学生街神田を基点として、明治37年(1904年)には日本への留学生は1,000人に達し、明治の後期には5万人もの留学生が日本で学んでいたといいます。淡白な日本の食事が口に合わない彼らの空腹を満たすべく、安くて栄養のあるそれも故郷の味を提供しようと中華料理店が続々と出来ました。ピーク時には東京神田区には100店を越える店が出来、さながら中華街の様相であったといいます。
 そのような時代背景の中、揚子江菜館は明治39年(1906年)西神田で創業されました。神田に現存する中華料理店では最も古い店です。実は、「支那そば」という店名でそれ以前から営業をしていましたが、店名を改めた年号を創業年にしています。                         
 初代の出身地は、上海より100キロメートル南にある寧波で、魯迅や蒋介石、周恩来が生まれ育った所としても有名です。祖母から当時の話を良く聞かされましたが、初代は大変面倒見の良い人物だったといいます。常に貧しい留学生たちの味方で、お金が無くても「都合のいいときでいい」と、料理をふるまっていたそうです。悲劇の女性革命家、秋瑾も来ていたそうです。
 また「寧波華僑総会」と「神田中華組合」を創立し、その初代会長を務めていました。 
 店は震災を経て、昭和初期に西神田から現在の神保町すずらん通りに移転します。
【画像上:初代 周 所橋氏ポートレート。画像下:明治41年の駿河台下の大通り(現・靖国通り)。明治37年開通の路面電車は神保町から小川町へと向っている。多くの中国人留学生たちが日本へ、そしてこの神田へとやって来た頃の町の様子が分かる(写真:レオマカラズヤ提供)】
【昭和初期に西神田から現在地すずらん通りに移転したころの揚子江菜館】

■2代目 周 子儀(しゅう しぎ)大谷 子儀(明治43年[1910]生~昭和58年[1983]没)

 初代所橋の長男です。初代の妻が大谷姓の日本人でしたので、2代目は生まれも育ちも日本。国籍も日本人となりました。仕事は、若い頃は初代と一緒にやっていましたが、任されるようになって以降、現在のお店のメニューの基盤を作りました。当店の特徴は、タレ。三杯酢からおこしたタレは、2代目が日本人の口に合うようにと作りました。甘いけれどさっぱりしていてくどくない。これは2代目からのずっと変わらない当店の味です。そのタレが存分に堪能できる甘酢系の料理の代表格が、酢豚、カニ玉、肉団子、鶏のから揚げ甘酢かけです。それと昭和8年に生まれた元祖「冷やし中華」。2代目は神田連雀町の「まつや」の蕎麦が大好きでしたので「中華そば」で「ざる蕎麦」みたいな料理を、という発想で考案しました。「雲を頂く富士山の四季」をイメージした山高の盛り付けは、今も変わらず当店の人気メニューですよ。
 2代目は、読書家で研究熱心な人物でした。反面頑固で、駄目なものは絶対許さない。材料と味には絶対の自信を持っていますので、たとえお客様でも「この味で文句があるのなら、お金は払わないでいいから帰ってくれ!」と決してお客様に媚びない人物でした。作家の池波正太郎さんが頻繁に食べに来てくれて、仲が良かったですね。池波氏の食べもののエッセイにも書かれていますが、日本酒が好きな氏はシュウマイや冷やし中華の具を肴にして、最後に麺をいただくという食べ方でしたね。
【2代目 周 子儀(大谷 子儀)氏のポートレート】
【昭和12年のすずらん通り。駿河台下より撮影。かつては表神保町と呼ばれ、町の目抜き通りだった。すずらんの呼び名どおりすずらんの形をした街灯がきれいに並んでいる。関東大震災後、この通りにあった多くの古本屋は、本の日焼けを避けて靖国通りの南側に移転していった。今も賑やかな商店街のこの通りの奥に揚子江菜館がある(写真:レオマカラズヤ提供)】

■3代目 周 祖基(しゅう そき) 大谷 祖基(昭和23年[1948]生~ )

 2代目の長男で私の従弟にあたります。私の師匠のような存在で、2代目が亡くなった後、上海にいた私を呼び、一緒に10年ほど仕事をしていろいろ教わりました。
 3代目の口癖は、「自分がこの店の料理を食べたいと思わなくなったら、この仕事は辞める」です。それは、自分の店の料理に自信があるから商売としてやっていられるので、やるからには、決してごまかしがあってはならないということと、私は解釈しています。当たり前のような言葉ですが今、任されている私にとっては、信頼されている重みを最も感じることの出来る言葉です。
 3代目は、他に病院経営やIT事業など沢山の事業を手がけるようになり、時間を取られるこの仕事を料理好きの従弟の私に託してくれました。
【3代目 周 祖基(大谷 祖基)氏のポートレート】
【昭和40年後半~60年代の揚子江菜館は現在の店の向かい側にあった。登録商標の京劇の仮面の看板はこの頃から】

■4代目 沈 松偉 (ちん しょうい)(昭和34年[1959]生~ )

 初代の所橋と20歳離れた妹が、私の祖母です。上海生まれの私は幼い頃から、神田の揚子江菜館での話を、祖母や2代目から聞いて育っています。いずれは自分も日本で仕事をしようと、上海の日本語学校にも通っていました。2代目は晩年上海に帰ってきて亡くなったのですが、私は2代目の入れ替わりのような形で3代目に呼ばれて日本に来ました。自分で言うのもおかしいですが、小学生の頃から物を作ることが好きで、ラジオ、テレビ、固定電話、カメラ、現像機、時計、箪笥作り、縫製となんでもやりました。中学生の時は半分以上自分で作ったズボン、シャツを着ていました。そしてもちろん料理も得意でした。
 大学の進学を考えていた時で、日本に来るまではどちらかというとエンジニア指向だったのです。しかし、3代目と一緒に中華料理の店を運営するのだという決意は、日本の大学で奨学金を受け経済学を選び、大学院卒業まで6年間特待生で過ごすことになりました。
 店に入るようになってからは、仕入れから調理、新人の教育、経理まですべてやり知ったのは、この店で一番大事なことは、2代目が築いた味を変えてはいけないということでした。
 2代目は徹底的に食材にこだわりました。その結果シンプルで美味しい中華料理を確立したのです。自分の腕を自慢してはならない、いい材料があってはじめていい料理が出来ると。
 この教えのお陰で、今も沢山の馴染み客が来てくれています。皆さんがこの味を求めてわざわざ遠方からも。仕事をしていて一番嬉しいのは、いつ来ても昔からの味をちゃんと守っているね、という言葉を頂いたときです。今、神田の町にもチェーン店化した新しく安い料理店が次々に出来、古いお店が店を閉めていく傾向が見られます。
 チェーン店では絶対真似の出来ない、先代から培ったノウハウがここにはしっかり根付いています。今私は3代目から、100年以上続く店を4代目として任されているという責任の重さを、毎日感じて仕事場に立っています。この仕事は単純作業の連続ですが、この単純作業に飽きたら終わりです。常に情熱をもって取り組むことで日々の発見があり、継続することが出来るのです。
【4代目沈 松偉氏。昭和初期からのレジ前にて】
【昭和8年に2代目子儀が考案した、揚子江菜館の看板メニュー、「雲を頂く富士山の四季」をイメージした“五目涼拌麺(ごもくひやしそば)”。味も盛り付けも今も昔と変わらず、当店の人気メニューのひとつとなっている】
●揚子江菜館
千代田区神田神保町1-11-3
電話:03‐3291‐0218
http://www.yosuko.com/index.html

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