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百年企業のれん三代記

神田で三代以上のれんを守ってきた老舗にスポットをあて、初代から現在に至るまでの歴史を写真と文章でご紹介します。

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第27回 有限会社鈴木太兵衛商店

お話:3代目妻 鈴木壽子さん(記事公開日:2013年8月13日、文:亀井紀人)

■初代 扇屋太兵衛(嘉永年生~昭和3年[1928]没)

 今年91歳になる私の夫、源治が30年ほど前に茨城県玉造町にある鈴木家の菩提寺である一閑寺に作ってもらった過去帳があります。それを辿ると、400年ほど前から玉造町の内宿で10代続いた領主であったことが判りました。その後、天保年間に上宿(玉造町)に移り、当家としては11代目となります扇屋太兵衛の名で呉服商を始め、隆盛を極めました。水戸天狗党が活躍した時代で、過去帳には鈴木太兵衛商店として初代となる扇屋太兵衛について、次のような記録が残されています。
「上宿扇屋は天保年間特に藩政に協力した功により藩主徳川斉昭公(常陸水戸藩の9代藩主で江戸幕府最後の将軍慶喜の実父)より郷士に列せられ佩刀(はいとう)一振りを給わっている」と。太兵衛の水戸藩の領主として、また商人として多大な献金をした様子が伺えます。この刀は初代太兵衛が日本橋小網町に居を移した際、一緒に持って来ましたが、残念ながら大正12年の関東大震災で焼失しています。
 当家の発祥の地、玉造町内宿と隣り合わせにある鈴木家先祖の眠る菩提寺、一閑寺の所在地は「原新田」。古くは「原神田」と呼ばれたそうです。現在神田に住いを持つ私たち夫婦にとって、何か深いご縁を感じています。
【大正12年の大震災により、日本橋小網町の店も住宅も焼失した為、北区滝野川にあった別宅に避難したときの家族写真。中央に初代太兵衛、その左が2代目甚四郎、一番左で母親に抱かれているのが、3代目源治。大正時代の3代揃っての写真は珍しい】

■2代目 鈴木甚四郎(明治26年[1893]生~昭和49年[1974]没)

 2代目甚四郎は私の義父にあたります。商売は日本橋小網町で真綿の卸をしていました。大手の寝具店などがお得意さんで、住み込み職人が10人もいました。当時小僧さんだった職人さんが、今は80歳近くになっていますが、未だに盆暮れには必ず訪ねて来てくれます。交通便利な神田にいると、こんないいこともあるんですよ。
 私の2代目の記憶は、怒ったところを見たことがない、温厚な人でした。
 店は、日本橋小網町から靖国通り沿いの神田淡路町に移転します。近くの明神下の花柳界の料亭や、老舗の料理店など沢山のお得意様がいましたね。
【2代目甚四郎の喜寿の祝い。隣が妻のハナ】
【神田淡路町の店内での私たち夫婦。残念ながら日本橋小網町の写真はなく、店が写っているものではこれが一番古い写真。昭和45年頃】

■3代目 鈴木源治(大正12年[1923]生~ )

 私の主人です。昭和18年、主人は大学を出ると丸の内の東京海上に勤務が決まりましたが、それと同時に太平洋戦争が始まりました。入社して8ヶ月の勤務の後、召集令状の下、同年12月に水戸の連隊に入隊。その後陸軍の熊谷飛行学校で特別操縦見習士官となり、パイロットとして戦地である台湾、シンガポール、インドネシアに出征しています。偶然ですが、私の実兄も同じ戦地に行き、戦友だったのです。お蔭様で二人とも無事帰還することが出来ましたが、主人はインドネシアのバンドンで、ジャワ防衛義勇軍の軍事指導官として居残ることになりました。
 2年間の服務を終え、昭和22年バンドンから帰った主人は東京海上に社員として復帰します。戦地から帰ってきた主人を待っていたと、会社の上司、同僚たち皆が快く迎えてくれました。
 一方、鈴木太兵衛商店は当時、真綿の職人コンテストで第1回目の優勝者となった林信一さんという腕のいい職人を抱えていましたので、沢山のお客様が付いていました。この時、主人は店を継ぐべきか、会社に残るべきか大いに悩んだと云います。主人は決断をします。2年間しっかり会社勤めを果し、その後家業である鈴木太兵衛商店の3代目として店を継ぐと。
 当時の店のお客様には、今もお付き合いのある歌舞伎座の松竹衣装部さんは、鹿の子しぼりの日本舞踊やこたつ布団用に、他には名立たる築地、新橋、赤坂の有名料亭や旅館、相撲部屋、大学病院など布団、座布団のニーズが多く忙しかったですね。布団は売りっぱなしではなく、後々の面倒も大事な仕事ですから。
 忙しい最中、主人が職人と一緒に宮中に布団を作りに行き、一週間も帰ってこなかったこともありました。大きな思い出となった出来事としては、歌舞伎の12代目市川団十郎さんが10代目海老蔵の時代に結婚が決まり、団十郎さんのカラーである古代紫と浅葱(あさぎ)色のちりめん(絹を平織りにして作った織物)で布団を作りそれをしばらくの間、駿河台の主婦の友で展示したことです。
 仕事を離れては、80年代後半から年に2回は支援物資を持ってインドネシアの各地を訪れるようになりました。私も一緒に随行していますが、延べで50回を越える訪問になりました。主人が教官時代の教え子の皆さんが政府の要職に就いていて、国賓扱いで迎えてくれるのです。お互いが第2の故郷のようになり、彼らが日本に来たときは必ず我が家に寄ってくれます。それと平行して、20年間早稲田でインドネシア語を学び、昨年(2012年)12月ご縁のあったインドネシア作家の翻訳本を共著で出版しました。また趣味のスポーツでは、日比谷テニスクラブを作り初代会長を務め、夫婦で通いました。主人は87歳まで現役でしたね。夫婦とも病気知らずで、入院したことがないのが自慢です。
【昭和18年、3代目源治氏が大学卒業前に2人の弟と妹とで撮った写真。同年12月に中央の源治が陸軍へ、左上の弟勝之助が予科練生として海軍へ出陣】
【第一回全日本寝具製作技能コンクールで優勝の授与を受ける林信一氏(画像上)と、その受賞作となった第12代目市川団十郎の婚礼時の布団(画像中央)。現在の須田町の店前で、平成25年5月の4年ぶりの神田祭。右が3代目源治、左が妻の壽子(画像下)】

■4代目 勝也(昭和30年[1955]生~ )

 私も父と同様、大学を出て8年間船舶エンジンの会社で輸出業務のサラリーマンをしていました。店を継ぐことは、会社の上司には始めから断ってありましたので、30歳になって無理なく会社を辞職することが出来、自然体で鈴木太兵衛商店に入ることが出来ました。祖父からは「将来継ぐんだぞ」とよく云われてましたが、父からは云われたことはなかったですね。180度違う商売への転職は、職人の林さんはじめ先輩から教わることだらけでしたが、皆さんが親切に指導してくれましたので苦労は無かったです。
 私が店を見るようになって大きな出来事が2つありました。2000年問題時と2011年の3・11の時の布団の需給です。お客様が殺到して収拾がつかず、最後は売るものも貸す物もなくなり、断るのが大変でした。
 小さな店ですが、先代からのお客様にも恵まれ、最近はインターネットでの貸し布団の注文が増えています。転勤族は国内各地からの注文だけでなく、先日はフランスから注文が入りました。千代田区神田という地の利を感じますね。
 また、神田祭では半纏や手拭、浴衣のデザインもやっています。
 仕事を離れては、40年近くはまっていますサーフィンに千葉、茨城の海まで出かけたり、ジャズバンドのドラム担当をしたりで忙しくしています。
 幸い5代目跡継ぎ候補として今サラリーマンの息子がいますし、妻が寝具技能士1級(国家資格)を取ってくれていますので、これからも家族ぐるみで店を守って行く所存です。
【4代目勝也がデザインした、祭り用の浴衣。神田の文字と淡路一丁目の略文字が粋だ】
【現在の須田町店前にて。4代目勝也と妻美由紀】
●有限会社鈴木太兵衛商店
住所:千代田区内神田2-10-5
電話:03-3251-2013

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