KANDAアーカイブ

神田学会
お知らせ 神田資料室 神田マップ 神田写真館 百年企業のれん三代記 神田の花咲かじいさん 出版物紹介 神田学会とは 神田学会資料請求 関連リンク Perspectives in English 神田アーカイブとは リンクについて 問い合わせ

百年企業のれん三代記

神田で三代以上のれんを守ってきた老舗にスポットをあて、初代から現在に至るまでの歴史を写真と文章でご紹介します。

印刷用

第28回 株式会社花慶

お話:5代目 安原 俊一さん(記事公開日:2013年9月20日、文:亀井紀人)

■初代 宮田兵五郎 (弘化2年[1845]~明治12年[1879]没)

 古くからある東京の花屋さんの出自は、菖蒲園で有名な葛飾の堀切と謂えます。日比谷花壇の宮嶋家も、当家も同じ堀切出身です。堀切の「名代地主」「名代庄屋」であった宮田家に養子で迎えられた兵五郎は、安政6年(1856年)堀切を出て、山堀(ヤマホリ)の屋号で、両国虎屋横丁に花屋を出店しました。実は兵五郎の先代も日本橋槇町で花屋を営んだこともありましたが、花屋を家業として始めたことで、兵五郎を初代と位置づけています。 当時、花は曳き売りと云って荷車に載せて売るのが主流で、店を構えて売るスタイルは珍しかったと謂います。しかしながら明治12年、当時の流行り病であったコレラによって、兵五郎は35歳の若さで亡くなります。妻と子供6人は夜逃げ同然で堀切へ戻り、長男は堀切で花の生産を始めます。
【堀切菖蒲園。花慶の初代兵五郎の出身地。江戸時代から堀切は菖蒲の名所で、6月ともなると、この浮世絵のように多くの人々が開花を愛でに集まった。(出典・東京風俗志) 】
【画像左:浮世絵に見る江戸時代の花売り。切花売りはほとんどが男で、ここに紹介した女性の切花売りの姿は珍しいという。(出典版画細漆絵「花売り」年代不明 近藤勝信画)画像右上:花売り。三都ともに花売りには男子多く、又稀老婆あり。仏に供する花を専とし、活花に用いる花は少し。「守貞漫稿」とあるように男の花売りは絵のように花を両掛にして担ぎ、老婆は花を筵で包んで小脇に抱えて売りにきたと云われている。(出典・絵本「四季交加」寛政10年 北尾重政画)画像右下:つつじ花売りこの絵は大阪のもの。(出典・風俗本「守貞漫稿」嘉永6年 喜田川守貞)】

■2代目 宮田慶次郎改め安原慶次郎(慶応3年[1867]~昭和25年[1950]没)

 私の曽祖父にあたりますのが、2代目慶次郎です。慶次郎は宮田家の次男で、柏で跡継ぎのなかった「安原」の名跡を購入し、明治19年(1886年)に姓を宮田から安原に改名しました。両国の店は、慶応年に生まれた自分の名を採って屋号も山堀(ヤマホリ)から花慶に改め、明治22年に両国から神田東福田町(現在の千代田区岩本町1丁目)に移転します。この頃、大火で東福田町の一帯が焼けましたが、花慶の処で延焼が止まったので「縁起の良い花屋だ」と、よく花が売れたと云います。当時は店売りの他に、天秤棒を担いで売り歩きました。慶次郎を知る、叔父の話では生花の荘網流の華号も持っていましたが、釣り銭を一掴みにしてその額を言い当てるとか、鋏でしか切れない針金を口で切ったとか、あまり花屋に相応しくない言い伝えの多い曽祖父です。
【きっと堀切から仕入れた菖蒲であろう。五月の節句に、軒に菖蒲と蓬をふき、菖蒲湯に浴し、菖蒲酒を飲むのは邪気を払うためと云われていた。(出典・江戸府内絵本風俗往来・明治38年菊池貴一郎画)】
【江戸時代には菊は珍重され、庶民の間で菊作りが盛んに行われた。(出典・江戸府内絵本風俗往来・明治38年菊池貴一郎画)】

■3代目 安原憲太郎(明治28年[1895]~昭和54年[1979]没)

 花慶の中興の祖と謂えるのが、大正13年(1924年)に3代目として承継した6人兄妹の長男、憲太郎です。
 昭和6年(1931年)今も続く、宮内庁御用達を勤めることができたのも憲太郎の代からのことです。憲太郎は、生け花の世界で相阿弥流で憲甫(けんぽ)の華号を持ち、家元の代わりに花を創れるほどの技量があったとか。御用を務めるようになったのも、その評判が御台盛(おだいもり/慶事の時に松の枝や葉を盆栽のように仕立て、その下の器に料理を盛り付け飾ること)の製作を頼まれたのがきっかけでした。太平洋戦争が始まり、戦時中は細々とした商いでしたが、憲太郎が生産地に直接出向いてチューリップを仕入れて軒先に並べておくと、すぐに売れたと云います。花を求める人の心は、こんな過酷な時代でもあったのですね。戦災で神田の店が焼失し、終戦とともに昭和20年(1945年)日本橋小伝馬町に本店を移しました。翌年の昭和21年(1946年)旧丸ビルのオーナー(三菱地所)から出店の依頼を受け、旧丸ビル1階に日本で最初のテナント花屋を誕生させ、世間の耳目を集めました。丸ビル店は、その地域に進駐軍のオフィスが沢山あったため、花がよく売れました。
 3代目の次男の静次郎叔父の話では、当時の家業は皆そうであったように、親族一同一家総出で店に張り付いて仕事をしていましたが、憲太郎は「お前たちの金は俺が預かっている」と言い、薄給、無休で働かされたと云います。江戸っ子で、教科書みたいな江戸弁が喋れる祖父でしたね。
【画像上:昭和8年ごろ、真ん中のマントを羽織っているのが3代目憲太郎その側に立っている小学生が叔父の静次郎氏。画像中、下:宮中出入りの必需品。今も使われている花箱と道具箱】
【大正12年竣工の旧丸ビル(出典・縮刷丸の内今と昔[昭和27年 発行、三菱地所株式会社 出版])と、昭和21年にその1階で日本で最初のテナント花屋となった花慶丸ビル店】

■4代目 達一郎(大正11年[1922]~平成14年[2002]没)

 4代目の長男達一郎が私の父です。昭和37年(1962年)4代目を承継しますが、タイプとしては職人肌でしたね。父の代までは社長自らが市場に仕入れに行きました。当時は東京に40箇所ほど花の市場がありましたが、今は5箇所。
 父は、浅草橋の生花市場によく行っていました。競(セリ)買いによる仕入れがすべての時代で、良いものを上手に買う名人でした。朝早くから昼まで、毎日仕入れに出向いていました。父の代までは、三越さんや商社、銀行などに代表される大会社の華道部からの注文が多く、生花宗家に合わせた季節感のある花の配達で大忙しでした。
昭和60年、岩本町の現在地に花慶ビルを建て、本社機能を小伝馬町から移しました。
【4代目達一郎のポートレート】
【昭和60年竣工時の花慶ビルと、当時の店内】

■5代目 俊一 (昭和25年[1950]~ )

 昭和48年3月に早稲田大学を出て、秋から始まるアメリカのサンフランシスコ市立大学のOrnament Horticulture(装飾園芸学科)に、2年半留学しました。日本にはなかった学科で、謂わば「花屋の育成学校」。カリキュラムに実地経験があり、6件の花屋で勤めそこで給料も戴きました。後にも先にも雇われた経験は、この時の外人からだけですね。学業を終えて、4ヶ月ほどアメリカ本土をグレイハウンドバスで旅をしました。多感な時期でしたので、その後の私の人生に大きな影響を与えてくれた経験でしたね。多民族の集まりの国ですから、みんなと同じが不思議で、違って当たり前。日本人の美徳とする我慢は決していいことではなく、言いたいことはきちんと言わなければ伝わらない。
 アメリカ本土の旅で知ったそんな考えは、現在も日々の社員とのコミュニケーションに、大いに役立っています。
 昭和62年に5代目を継承。無口な職人肌の父からは、手取り足取りの教えは全く無く、仕事は見て盗めというスタイルでした。その頃の社員は15名。今は40名に膨らんでいます。平成13年には東大病院店を出店し、平成14年には丸ビル店、新丸ビルより、新装丸ビルに移転しました。
 お蔭様で、昭和6年から続いている宮内庁の御用は、従弟で常務の直樹が皇室担当として、毎日のように宮殿の花瓶や晩餐会の花を生けに行ってます。
 以下は本人の弁です。「現場での作業が多く、また時間も決められていますので、作業がスムーズに行くように花の選択やどう生けるかなど、大筋のイメージを決めておく。季節感と和の雰囲気を大事にしています。」
 花慶は、宮内庁の御用という大きな看板と、そして先代からの顧客に支えられ、それに伴う責任を背負って正直にやってきました。老舗の宿命としてそれを守りつつ、この激動の時代に遅れないよう、時代に合わせて変革してゆくのが私の努めと思います。これからの課題としては、何と言ってもお客様に合わせれる店づくり、商品づくりでしょう。それにはお客様、社員への感謝の気持ちが一番大切なのではないでしょうか。それを心がけていれば、もっといい商品、サービスが見えてくると思います。
【5代目俊一のポートレート。花慶店内にて】
【5代目俊一が取り組み展開中の、花慶の新しいギフトブランド銀兎】
●株式会社花慶
千代田区岩本町1丁目9番2号
電話:0120-66-8751(お問合せセンター)
http://www.hanakei-tokyo.jp/

戻る

ページの先頭へ
ホーム ホーム