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百年企業のれん三代記

神田で三代以上のれんを守ってきた老舗にスポットをあて、初代から現在に至るまでの歴史を写真と文章でご紹介します。

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第29回 株式会社箸勝本店

お話:4代目 山本 權之兵衛さん(記事公開日:2013年10月9日、文:亀井紀人)

■箸について

 初代の紹介の前に、私たちの生活にしっかり根付き欠かせない「箸」について、知られていない事柄が多いと感じていますので、少し述べさせていただきたいと思います。
 箸食の文化は、中国を起源に台湾、韓国、北朝鮮、ベトナムほか東南アジア諸国で息づいています。箸は日本に伝来した時から、神と人の間を仲介する神聖な道具として、日本人は特別に崇高なものとして独自の箸文化を築いてきました。神聖な道具として使われていた箸が、日本人の食の道具となったのは平安時代です。まず貴族階級の間で使われ、その後大饗料理、本膳料理、懐石料理と、日本の食文化を支えながら発展しました。箸が広く普及するのは江戸時代です。当時は繰り返し使える竹の箸が主流でしたが、そのなかで考案されたのが割箸です。特に江戸の鰻屋で良く使われ、その後、吉野杉で作った酒樽の端材で作る割箸も考案されました。割箸は今日では使い捨てにされ、輸入製品が多くアジア諸国の森林を破壊していると、環境保護団体や有識者からの非難の声もあります。現在日本で使われている割箸の7割強が中国産であるのも事実です。しかし、国産の割箸は間伐材を建材として製材し、我社においてはそのときに出た端材を原料として使っています。この製法は割箸が考案された江戸時代と同じです。端材までも生かして新たな命を注ぐという木の文化の中で育まれてきた日本の箸文化の精神が、しっかり受け継がれているのです。料理にこだわれば、その料理を口に運ぶ箸にもこだわりが生まれてきます。毎日の食事から精神的な豊かさや充実感を得るためにも、より良いお箸で美味しい食事を召し上がって欲しいですね。箸の良し悪しが料理の味を左右するといっても過言ではありません。
【古事記に素箋鳴尊が、出雲の国の簸川(ひのかわ)の川上にある鳥髪の地で、その川に箸(古事記では波之と記してある)の流れ下るを見て、上流に人ありとして遡って行き、八岐大蛇(やまたのおろち)を斬って天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)を得たという古事に箸が現れています。(出典 大館豪磨画・簸川(ひのかわ)神話)】
【片山哲(文化5年[1887]~昭和34年[1978])。第46代内閣総理大臣の片山哲が箸の古い歴史を表し、箸勝主人に贈った書。「用箸悠久五千年」・箸勝所蔵)】

■初代 山本勝治郎 (明治14年[1881]生~昭和14年[1939]没)

 そもそも山本家のルーツは、南北朝時代の後醍醐天皇の吉野遷都に従い奈良県吉野下市町に土着し、この地の名産である吉野杉、檜などの材木の問屋を生業とし、また代々続く庄屋でもありました。
 山本家23代目にあたる私の祖父勝治郎は、吉野の豊富な木材資材の端材や間伐材を活かして割箸を作り、京都、大阪への商いを始めました。屋号は「山本商店」明治43年のことです。 
【山本家のルーツ奈良県吉野で世界遺産となった、吉野大峯(写真提供・吉野山観光協会)】
【吉野川沿いの吉野町丹治や橋屋はかつて吉野川を筏で下ってきた吉野杉や桧が集積されたため今でも貯木場と呼ばれています。現在では筏を見ることはできませんが、多くの製材所が建ち並び、他に類を見ないきめ細やかで美しい吉野材が生産され、全国に送りだされています。(写真提供・吉野山観光協会)】

■2代目 山本利右衛門香橘 (明治38年[1928]生~昭和55年[1980]没)

 初代勝治郎の長男が私の父、利右衛門香橘です。首都東京の人口の増加と共に割箸の需要も急増し、利右衛門香橘は東京への進出を決断します。昭和3年、本郷区湯島新花町三番地にて「箸問屋山本商店」が創業されました。
 昭和14年文京区妻恋坂に移転しますが、すぐに太平洋戦争が始まります。戦時中も営業は続けましたが、昭和20年3月家屋、店舗とも焼失し山本家の故郷である奈良県吉野郡に全員疎開しました。同年8月の終戦を経て、昭和24年に現在の地、神田旅籠町(現在の外神田3丁目)に落ち着きます。
 翌年の昭和25年は箸勝にとって大きなエポックとなる年となります。ご縁があって宮内庁御用達の栄をいただき、この年から現在に至るまで陛下が日常お使いになる、柳の細くて軽い白木箸からご旅行用の箸、そして、各宮家がお使いになるものまで、お納めしています。
 昭和50年株式会社箸勝に。そして昭和54年現在の箸勝本社ビルが竣工します。
 明治生まれの父は古い保守的な面と、欧米の進んだ新しいものにも興味を持つという人物でした。たとえば、ドイツのハイデルベルク社の印刷機を導入したり、欧米の自動車、オートバイ等も購入したりするなどの反面、日本の絵画や古書文献を研究し、特に皇室と奈良県の結びつきなどを論文にしていたようです。特に箸勝の扱う商品の歴史的な存在についての研究は、同業専業者に対し率先して教育を述べる存在でした。晩年は、常に背広姿にネクタイをきちんと締めて紳士帽を被り、ダンヒル製の銀のステッキで会社に一番早く出社していました。
【画像上:昭和3年、東京進出の初めての拠点となった、本郷区湯島の箸問屋山本商店店前にて。4人の人物は従業員。当時大阪の工場から出荷された沢山の俵の中には箸が。画像下:昭和24年現在の地、旅籠町(現在の外神田3丁目)に移転した箸勝本社】
【画像上:天皇に納める箸の前で。店ではいつもこのように背広にネクタイ外に出るときは、紳士帽子が加わる。画像下:戦前の写真。オープンカーに乗って。乗り物好きの父らしい写真。オートバイの写真も多々】

■3代目 山本利兵衛(昭和8年[1933]生~平成18年[2006]没)

 3代目は私の兄です。2代目右衛門香橘の長男の兄は、父が亡くなった翌年の昭和56年箸勝社長に就任しました。家族経営ですので、私も兄も商売には厳格な父の下で、一緒になってよく働きましたね。父は恒に「正商を信条」をモットーに日本一の箸問屋を目指すよう私たちに厳守させていました。兄との思い出で、終戦後、運搬用の自動車がまだなかった頃、兄と私と2人で一緒にリヤカーや自転車に箸を積んで、よく配達に行ったものです。秋葉原からリヤカーを引いて、荻窪まで行ったこともありました。また、12月31日の大晦日には集金を言い渡され、お得意さんを廻ったこと思い出します。兄の時代では、平成天皇即位の礼の後の大嘗祭で、皇室から依頼を受けた神饌用具一式を納めました。兄は、商人向きの大変温厚な性格の持ち主で、特に数字に強く箸勝の発展繁盛には最適な申し分ない経営者でした。
 趣味は父と同様に、オートバイと自動車が好きで沢山持っていたようです。
【画像左:昭和54年竣工の外神田3丁目の箸勝ビル。画像右上:正商を信条。これが我社のモットーとなっている。箸勝本店内。画像右下:1986年4月29日ダイアナ王妃の来日に際し、箸の使い方をお教えしたことへの、感謝状】
【画像上:平成2年の大嘗祭に使われた神饌用具一式。とり箸以外は欅の木で作られている。右から両口箸、楊枝、匙、口細箸、杓子、飯杓子、竹の取り箸。以前使われたものは、すべて燃やしてしまうので、見本はない状態で作った。箸勝本店所蔵。画像下:3代目のポートレート】

■4代目 權之兵衛 (昭和13年[1938]生~ ) 

 平成18年兄が亡くなり、本来ならば兄の長男が跡を継ぐのが筋ですが、その長男は大学を出て官僚の道に入っており、当時専務だった私が社長を継ぐことになったのです。そもそも山本家では代々商売を司る当主には「利」が入る利右衛門が主流ですが、父は兄に家業を継がせて、次男の私には軍人にするつもりだったようです。「權」というのは、御所を警護する「武」を司る意味らしいです。私は子供の頃、太平洋戦争のため奈良県の実家へ疎開し、そこで箸を作る作業場へ行って遊んだり、手伝ったりして箸がどのようにして作られるのかを覚えました。終戦後の昭和22年、焼け野原となった秋葉原に帰り、店は再建されます。父の下で学生だった私は兄と共に昼夜厭わずよく働きました。そんな苦労の甲斐もあり、徐々にお客様も増え、社員も増える中、私は大学に進学し、家業の手伝いはしていたものの箸勝に勤める気はなく、卒業後は商社に就職しました。そこで1年間勤務した時点で「忙しくなったから戻ってきてくれ」と請われて箸勝へ。ところが何ヶ月も経たないうちに、米国のサンフランシスコの大学から空手の指導者としての話が舞い込んできました。実は私、中学時代から武道を続け、師範を務めていたのです。昭和39年、26歳のことです。船で太平洋を渡り、2年間大学で空手の指導、普及にあたり帰国。戻って再び箸勝に復帰し、商品開発に力を注ぐことになります。2年間のアメリカ生活をはじめ、その後も私は空手の指導のため、たびたび海外に足を運んでいましたので、向こうの生活に溶け込んでいる色の応用化を考えていました。今までのパッケージには使われていない色使いを商品化し、選択肢を増やすことで、お客様に喜んで戴けることが出来たのです。箸は古くからの商品ですが、広い視野、新しい視点を備え、時代の流れも見据えていくことで、新商品が産み出されるのです。日本文化のバリエーションで、着物の柄のもとでもある千代紙を幾つか組み合わせ、それを正月用、お祝い事用に。このバリエーションで製作した皇太子殿下の御成婚時の記念箸は、国内の航空会社で配られて大好況でした。ネーミングも大事です。お客様用の割箸には客人(まろうど)箸と付けました。「まろうど」はまれに来る人という意味です。それは福を持ってくる人という意味から派生しています。そういう方をもてなす心を箸にも感じていただきたいという狙いでした。箸の形は製法上決まっていますが、それをどういう袋に入れるかという組み合わせには、工夫の余地があります。パッケージに箸の文化についての解説文や、外国人用には英語での説明文を添えて、啓蒙をはかっています。
 工場となる吉野の作業場の風景は、昔と変わっていません。裁断する刃物の質などは上がりましたが、箸作りの現場・工程は50年前と同じです。それだけ円熟した職人の業といえるでしょう。たとえば、大工さんが割箸を作ると、一本一万円を超えてしまうという試算がでているそうです。親から子へ、孫へ、この技術を伝承してもらい、産業を継続するためには、我々の商売が頑張らなければなりません。社長となった私には、働いてくれる人がいて私がある。家族だけでやっていたのでは、時間に余裕は生まれません。昔は大晦日の夜まで集金に回っていたものです。今は周囲が助けてくれて、いろいろなことに目を配りながら商売を進められます。これも忘れてはいけない大切なことだと思います。
【画像上:權之兵衛考案の230種ある色とりどりの袋に入った箸の一部。画像下:箸勝本店の2階で平成24年から權之兵衛の下で始めた箸で食すワインバーCAFE and Wine0‘84(ゼロハチヨン)おはし。ここではイタリアンパスタもお箸でいただく】
【画像上:權之兵衛のポートレート。箸勝本店内。皇室用の箸が入った「御用」の文字をバックに。画像下:オーストラリアのスポーツ誌に掲載された剛柔流空手道範士10段山本權之兵衛氏。14歳から始めた空手は、75歳になっても現役】
●株式会社箸勝本店
千代田区外神田3-1-15
電話:03-3251-0840
http://www.hashikatsu.com/index.htm

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