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百年企業のれん三代記

神田で三代以上のれんを守ってきた老舗にスポットをあて、初代から現在に至るまでの歴史を写真と文章でご紹介します。

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第30回 株式会社カインドウェア

お話:4代目 渡邊 喜雄さん(記事公開日:2013年12月12日、文:亀井紀人)

■初代 渡邊喜之助 (明治元年[1873]生)

 江戸時代、渡邊家は代々秋田県佐竹藩の御典医をしていましたが、明治維新で失業し、その後は秋田市で薬問屋を営んでいました。当主喜兵衛は12人の子だくさんで、その三男・才助と四男・喜之助の2人は仕事を求めて上京します。そこで2人はこれからはきっと洋服の時代が来ると感じ取り、江戸時代から古着商で賑わう神田柳掘り通りの先、浅草鳥越で全くの異業種となる古着洋服商を始めました。屋号は渡喜商店。明治27年(1894年)のことです。実は、3代目の私の父の時代に創業年を確認したところ、2人はもっと以前よりやっていたことが判りましたが、年号が不明確でした。そこで、若くして死亡した兄、才助の後を継いだ喜之助がこの年に東京羅紗同盟会理事長に就任していますので、明治27年を我社の創業年としました。当時洋服は全て注文服で、それを着られたのは貴族たち。喜之助は貴族の服を引き取り、下級官僚たちにそれを売ることを生業としたのが始まりです。
 その後、洋服は急速に日本の社会に溶け込み、渡喜商店は古着商から注文服のみならず既製服の製造販売にも力を注ぎ社業は順調に発展しました。初代喜之助は全国産業博覧会へ共同出品したり、既製服業界の技術向上のために縫製技術研究家を招いて講習会を開くなど、既製服の普及のために製造業者に大いに刺激を与える業績を残しました。
【江戸時代の神田柳掘りどおりの賑わい。柳原にはつるしの古着屋が多く、「柳原物」「柳原仕立」といえば古着を意味した。「東京名所図会」山本松谷画「神田柳原川岸通りの図」より】
【画像左:創業者渡邊喜之助のポートレート。画像右:大正10年[1921]上野で平和博覧会があり、モーニングを出品し入賞】
   

■2代目 喜之助

 子供のいなかった初代は養子を貰い受け、家系を継がせるため2代目喜之助を襲名させました。2代目の時代となり、初代から始めた既製服販売は和服から洋服への変遷という時代の後押しもあり、経営は順調に運びましたが、昭和17年の株式会社に改組後、太平洋戦争の嵐に巻き込まれます。{戦時は企業統制・整備によって既製服中央二十六代行(株)に衣替えし、戦後昭和22年には、一部の同業者が独立したため、会社名を改め東京繊維工業㈱となり二代目喜之助はその社長となっていました。事務所は二回の空襲で焼け出されたため、浅草鳥越のかつての職人の家に仮の机と電話を置いた小さなもので、従業員も10人ほどでした。主な仕事といえば「組合の配給指令に基づいて、統制品を販売する」ことでした。}(㈱日本繊維新聞社ソシアル産業を拓く渡邊国雄の歩んだ道)
 昭和25年株式会社渡喜に改称。会社はその後戦後復興と共に順調に発展し、2代目喜之助は東京既製服同業界、東京既製服製造卸協同組合などの要職に押され業界発展にも力を尽くしました。
【2代目喜之助(旧豊作)夫妻昭和30年頃】
【業界初の高島屋礼服コーナー(昭和26年[1951])】

■3代目渡邊国雄 1(大正4年[1914]生~平成2年[1990]没)

 3代目は私の父にあたります。2代目喜之助の子供は男と女の2人。その長男が戦病死し、妹の益江と結婚していたのが国雄でした。国雄は8人兄弟でしたので「妻の実家に万が一のことがあったら、渡邊家を継いで欲しい」との要請を受けていましたため、妻の兄の訃報を知り夫婦養子の形で渡邊家を継ぐことになったのです。国雄の実家河野家は、埼玉県騎西町に千年を遥かに越える古い由緒を誇る玉敷神社の神職で、父は神職のかたわら神道の研究を重ね国学院大学の学長にまでなった人物です。そのような家庭で育った国雄は父の恩恵を受け学才を発揮します。歴史の研究に打ち込み、国学院在学中は神道、考古学などの研究のかたわら日本刀への興味が湧き「日本刀研究会」を創設し昭和19年には初めての著書「軍刀」を発表。その後も何冊かの著書を世に出し、本業に差し支えない範囲で研究を続けた成果は、研究論文「神道思想とその研究者たち」をまとめ、昭和35年に文学博士の学位を受けました。
【3代目渡邊国雄ポートレート「宮内庁御用」看板のある会長室にて(昭和60年頃会長時代)】
【昭和19年[1944]国雄が初めて出版した著書。国雄はその後も日本刀の研究は欠かさず、刀剣美術の世界で名を挙げ、刀剣の鑑定士とまでなった】

■3代目渡邊国雄 2

 学問の世界で育った学者のような父が、妻の実家である紳士洋服商に身を投ずることになったのは戦後間もない昭和22年のことです。国雄は会社では主に仕入れ担当をしましたが、全く基礎知識のないずぶの素人であることを自覚し、職方の家に数ヶ月間通い詰め、洋服の作り方を基本から学び、東京既製服協会主催の裁断縫製技術講習会で全科目を履修しました。統制経済が少しずつ緩やかになるにつれ、国雄は3代目としてのこれからの会社運営について思いをめぐらします。10年ほどの歳月を必要としましたが、「特徴のない企業ではこれからは生き残れない」という結論から、黒の略礼服を我社の主力商品にしようと決断します。国民の生活水準はこれから確実に豊かになり、衣食が足りれば礼節が重んじられるだろう。黒の略礼服がそれまでの羽織、袴に変わる礼服となるであろうと信じ、国雄はこれを世に送り出すための市場創造に力を尽くします。昭和26年日本橋髙島屋に特に頼み込み、業界で初めての礼服コーナーを設置しました。礼服といえば注文仕立てのモーニングが主流だった市場の中で、功を奏して徐々にダブルの略礼服が消費者に浸透していったのです。
 そして昭和33年「ソシアル」ブランドの誕生です。昭和45年映画俳優の田中邦衛をキャラクターとして起用し、以来13年間CF・ポスターなどを通じウェアの着用を呼びかけました。フォーマルウェアのコーナーが定着すると、お客様からこれに合うネクタイを、ワイシャツを、という問い合わせが来るようになりトータルで物を売るような仕組みが出来上がりました。今ではトータルでの販売は当たり前ですが、これは当時では初めての売り方でした。
 昭和43年、株式会社渡喜にとって、また後の株式会社カインドウェアにとって大きなエポックとなる注文が入ります。皇居新宮殿が落成し、この時宮内庁から「公式礼服の御用を拝命」し、その実績をもって礼服でいわゆる「皇室御用達」企業の仲間入りをしたのです。以来「宮内庁関係の公式の服装は、ほとんど渡喜(カインドウェア)がご用命を承っています。また、イギリス王室から200年余にわたり礼装の御用を受けている英国ハンツマン社と技術提携を結び、男性用の礼服のみならず昭和48年から女性用礼装についても手掛けるようになりました。皇室関係のみならず昭和61年の先進国首脳会議(サミット)を開催するに当たっては、総理官邸や迎賓館の職員、さらに参加国大使館員などの礼装も担当し、この時「国内で国際的な会議を主催するに相応しい礼装のあり方について多少とも指導する立場に立てるようになった」と国雄は胸のうちを明かしてました。
【画像上:東京既製服協会主催の裁断縫製技術講習会で全科目を履修し、授与された証書。昭和34年[1959]の皇太子ご夫妻の結婚は、ファッション界も何かとミッチーブームにあやかり、礼服に対しての関心も高まった。昭和43年[1968]の皇居新宮殿落成に際し、宮内庁から「公式礼服の御用を拝命」戴いた儀礼服を納めたアルバムとその一部】
【キャラクター戦略の先駆けとなった田中邦衛とソシアル】

■4代目 喜雄(昭和24年[1949]~ )

 私が4代目社長に就任したのが、昭和60年(1985)で、ちょうど9年後に来る創業100周年には盛大にお祝いをしようと考えました。しかしながらこれからの繊維アパレル産業について熟考を重ねると、時代はすっかり豊かになり物余りの世の中に入っており、この業界で生きて行くだけではもたないという結論に達しました。そこで、「100周年後もしっかり踏ん張れる土台を創るのが四代目の私の使命だろう」と気付きます。創業時からの歴史を辿ると、我社の理念が見えてきました。「規模ではない世の中に無いものを作ろう・創造性を豊かに」と。「絶対に物まねはしない。よそ様ではまねの出来ないものを」。5年間かけて次の時代の柱とする候補3つを挙げ、そのうちから1本に絞り込んだのが介護用品の製造販売への進出です。当時、介護に必要なものをまとめて購入できる店は少なく、ファッションへの配慮も低いように感じていました。人は何歳(いくつ)になってもおしゃれをしたいはずだ、という考えから介護をする人、される人の気持ちが楽しくなるような商品を開発しようと。初めは誰も相手にしてくれませんでしたが、そこでお付き合いのある東急の社長と直談判し、「素敵な介護コーナーを作りましょう。これは百貨店としての使命です。」と説得。今までにない高齢者向きのファッション性に優れたステッキや用品を提案したのです。当社の創業100周年にあたる1994年に介護ショップ1号店をオープンし、ヘルス&ケア事業をスタートさせました。これもすぐには反応はしませんでしたが、日本の高齢化が進むにつれ徐々に売り上げも伸び、1999年には介護ショップは全国で100店体制となり、社名も“KIND WEAR”から“KIND WARE”に英字社名を変え、洋服のウェアだけの時代からの脱皮を果たしました。介護コーナは今やどこにもある売り場となっていますが、約20年ほど前に手掛けた会社はなく、真似されることはあっても真似をすることはしない我社の理念を実現できました。機能性だけでなくファッション性にもこだわったステッキは、今一番売れているアイテムです。
 この会社を継いで良かったと思えることは、国籍を問わず沢山の人と知り合えたことですね。平成元年(1989)日本フィルハーモニー交響楽団による第1回ソシアルクラッシクコンサートを開催し現在も続けています。これは楽団員の衣装が傷んでも、予算の都合でなかなか新しいものに換えれないという相談がきっかけでした。無償で衣装提供することで始まったイベントですが、このようなご縁は大切にしたいですね。他にも数多くの海外アパレルメーカーとの提携をきっかけに、海外また国内でも著名なデザイナーさんたちと一緒に仕事をすることでができ、永いお付き合いをさせていただいています。これは私の貴重な目に見えない財産と謂えます。
 私には5人の息子がいますが、全員海外での生活経験をさせています。27歳の長男は今米国にいますが、30歳までは日本に帰ってくるなと言っています。外の広い世界を見ることで得られるものが沢山あると信じていますので。
【英国イアン・トーマスとの技術提携で送られた、英国女王陛下御用達の看板の前で】
【ファッション性に富んだ介護用品の数々本社2階ショールームにて】
●株式会社カインドウェア
千代田区東神田2-2-5
電話:03-3864-2911
http://www.kindware.co.jp/

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