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百年企業のれん三代記

神田で三代以上のれんを守ってきた老舗にスポットをあて、初代から現在に至るまでの歴史を写真と文章でご紹介します。

印刷用

第34回 三松堂(さんしょうどう)株式会社

お話:3代目 矢部一憲さん、4代目 真太郎さん(記事公開日:2014年3月10日、文:竹田令二)

■はじめに

――印刷業は活字文化という情報産業の中で一角を占めていた。しかし、IT化の急展開で、厳しい環境の下にある。その中で、体質を変えながら、新しい時代をどう切り開いていくのか、一昨年3代目から4代目へとバトンタッチした三松堂のハンドル裁きを聞いた。
【三松堂埼玉工場】

■初代 矢部 三代雄(生没年不明)

 祖父が明治35年に日本橋で創業しました。日めくりのカレンダーを作っていましたが、暦だけでは1年の半分仕事が空いてしまう。そこで印刷業に乗り出しました。当時、市川に自宅があったのですが、芸者さんが駅まで送ったと聞いています。儲かってもいたんでしょう。日本橋の工場は大正12年の関東大震災で燃え、神田小川町に移転しました。1階が活版と組み版の印刷所、2階が自宅でした。父が20歳の時、祖父は亡くなりました。ですから、祖父の記憶はありません。
【活版印刷の風景。文選作業中(出典・印刷ユーザーガイド)】

■2代 富三( ~平成10[1998]年没)

 三男でしたが、20歳で社長を継ぎ、50年以上社長を務めました。「三松堂」の「三」は、祖父三代雄の「三」でもあり、それを父につけたのは、生まれた時から後継ぎにしようとしていたのではないのでしょうか。
 学者みたいな人でした。お金に振り回されるのが嫌な人で、銀行の支社長クラスが来ても会おうとしませんでした。勉強もでき、日本と中国の年号がすらすらと口から出て、お経も字もお坊さんより上手でした。無口で、仏壇の前でしか口をあけていなかった印象です。
 酒も飲まず、夜遊びもしない。お得意先を夜に接待したなどしたことがありませんでした。美術に造詣が深く、きれいなものが好き。お寺にお参りをすると、蘊蓄を聞かされました。商売っ気はあまりなく、無理はしない。邪心がなく、ものの本質を分かっていた人でした。父が70歳を過ぎてから買った絵を見ると、「こんな洒落た感覚を持っていたんだ」と気付かされます。
 
――2代目社長の時代、戦災で工場は焼失したものの、昭和25年に株式会社化し、西神田に新工場を建設し移転。さらに、板橋区に新工場を建設・拡張、近代化に進んだ。
【富三氏】

■3代目 一憲(昭和20年[1945]生~ )

 昭和43年に三松堂に入社し平成2年10月に社長を継ぎました。入社時は、日本の経済成長、技術革新が目覚しい時代で三松堂は活版組版、活版印刷とタイムスリップした感じでした。
 当然ですが、時代に追いつこうということで事業設備計画が目の前にありました。需要が伸びる印刷業は、フォローの風を受け、また出版業中心の得意先であり、ウィン・ウィンの関係がしばらく続きました。
 時代の逆回転の兆候が見え始めたのは、平成に入ってからでしょう。平成5年に一度頭を打ち、平成9年にまた頭打ちでした。印刷では、活版や組み版、それとオフセット手焼きなど職人仕事の領域がありましたが、それが、コンピューター化で消費者自身が作れるようになりました。職人の質が支えた前半の仕事がなくなってしまいました。質の勝負から大量生産できるかどうかのインフラ勝負になりました。大企業有利な展開です。平成16年にはまだ大丈夫だった紙やインキの業界も以後急激に売り上げを落としました。平成5年比較ですが、印刷業は30~40%減、製版は70~80%減、製本もこれから減少するのは目に見えています。
 昭和59年には活版部門を廃止し、オフセット印刷になりました。労働組合も強い業界で、力づくでやらなければならないこともありましたが、社員の首は切らずに乗り切りました。植字工がレイアウトの才能を見せたり、他の職人も適応してくれました。
 また、出版業界の先行きが縮小していくとの予感はあり、14~5年前からチラシ・カタログなど商業用印刷物にも進出しました。物造りを営業から納品までワンストップ型の前部門(まえぶもん)・印刷・製本・デリバリーと組み直しをしました。
 入社したての頃、「暮らしの手帖」編集長だった花森安治さんに「お前よぉ」と声をかけられた事があります。「暮らしの手帖」は「世の中の商品をランク付けする雑誌だからこそ品質日本一の本を出す」というのです。(その時代に)グラビアはカラーに、印刷は活版で「圧をかけてインキをつけると、周りが強く中がやさしく印刷される」から人の目に一番やさしいと。消費者の視点で批判もするが、自身も一番の商品を供給するということです。若い時に品質のこだわりを教わりました。
 印刷業界はインフラ・物造りとしては200社くらいになると思っています。その中でチャンとした形で残るようにしなければなりません。
 うちは代々息子に引き継いでいます。他社を見ていると、家族内の争いもあるし、株が分散して経営の安定を損なう例もあります。その点、うちは私と息子だけで100%です。趣味のゴルフを2日間続けるのがつらくなってきて、体力落ちてきたと感じました。ちょうどいいときに息子が社長になってくれました。
 
――一昨年10月に会長に退き、長男真太郎氏に引き継いだ。「新しい業態変革に行かざるを得ない」「いままでのツケがたまったから、頑張れよ」「社長の仕事は、何から何まで知ることが大事」と硬軟交えて話しかける。
【一憲氏、真太郎氏】
【4回にわたって拡張した板橋工場】

■4代目 真太郎(昭和57年[1982]生~ )

 大学生の時から会社でアルバイトをしていて、そのころからでしょうか跡を継ぐことを意識したのは。製造業と言うのは、機械が回ってなんぼの世界です。業態変革と言われても、これまでの投資を無にすることはできないし、時間とリスクがかかります。お金と運があればともかく、私が(幸運に恵まれた)1000人に一人だと思えません。今の延長で生き抜き、着地点に到達したときはそういう可能性はあるでしょうが。
 昨年10月に株式会社「グッドセレクト」(http://good-select.jp/)を立ち上げました。全国中小企業と、地域・地場をつなげ、販路を拡大して行くお手伝いをする組織です。各地の少量生産のものをどう生かしていくか、こういうことを通じ、次の時代が開ける可能性があります。登記には業務内容を山のように書いておきました。
 
――一憲氏が「(真太郎氏の)アルバイト代をたくさん払ったよ」と言えば「微々たるもの」と反論する。「業態変革」と強調すると「投資を無駄にできない」と真太郎氏。一憲氏の趣味「ゴルフ、麻雀、銀座」には「家のカウンターで家族で飲む」と真太郎氏。2人で会話を楽しんでいるようにしか聞こえない。初代と2代目富三氏、富三氏と一憲氏、また、一憲氏と真太郎氏、代々、硬軟互いにアクセルとブレーキ役となり、時代を乗り切ってきたし、これからも切り開いていく。
【新しい時代への司令塔、西神田に平成19[2007]年竣工の本社ビル】
●三松堂グループ
千代田区西神田3-2-1 住友不動産千代田ファーストビル南館14階
 
【三松堂株式会社(営業部門)】
電話:03-6823-5364(代表)
 
【三松堂印刷株式会社(製造部門)】
電話:03-6823-5361(本社)
 
【三松堂ホールディングス株式会社(管理部門)】
電話:03-6823-5360
http://www.sanshodo.co.jp

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