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百年企業のれん三代記

神田で三代以上のれんを守ってきた老舗にスポットをあて、初代から現在に至るまでの歴史を写真と文章でご紹介します。

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第36回 山崎金属産業株式会社

お話:5代目 山崎 洋一郎さん(記事公開日:2014年4月4日、文:竹田令二)

■はじめに

――銅、真鍮など非鉄金属は戦争や災害、そして大きな経済変動に左右されやすい。その中で昨年120周年を迎え、さらに未来へと歩みを進める山崎金属産業の歩みを聞いた。
【昭和初年の店頭写真】

■初代 山崎 惣吉( ~大正15年[1926]没)

 近江の出身で、両親を亡くし、幼いころから祖母の下で育てられました。最初は薬屋さんに奉公していましたが、弟の紹介で、同じ三崎吉三郎商店に奉公です。三崎商店は住友の別子の銅を一手に扱う大店で、今のうちの会社の前のブロック全部を占め、江戸時代に地図にも「三崎」と名前が書き込まれているほどの店でした。
 初代は明治26(1893)年10月に暖簾分けし、本店のはす向かいになる現本社地の神田材木町(現岩本町)で「三崎支店」名で独立しました。本店と同じではいけないと、店頭の小売商売でした。社史には、当時の従業員の思い出に「基礎作りには全く適格の長者」「諸事に細心で丁寧」とありますが、具体的なことは聞いていません。私が生まれたのは2代目の祖父が亡くなったあとだったので。
 当時の小売りの中心は足袋のこはぜやボタン、のちには錠や電球の口金も扱いました。明治37~38年の日露戦争のときは兵隊の服に使うボタンが品質を評価いただき、売れたそうです。でも、堅い商売を続けました。
【山崎惣吉氏】
【当時の帳簿類】

■2代目 惣吉(和三郎) ( ~昭和37年[1962]没)

 初代が早く体を悪くしたので、進学した慶応大学も実用的な商工学校にし、大正2(1913)年に卒業してそのまま家業に入りました。大正15年、相続と同時に「惣吉」を襲名。「和三郎」は幼名となります。すぐに業務のほとんどを見るようになっていました。この時代、いろいろ手を伸ばしました。想像するに、当時は今と違い、メーカーに市場支配権がなく、エンドユーザーと流通に価格決定権があったからではないでしょうか。それで銅や真鍮の素材工場や銅製の瓦版製造など支援に資金を集めてやれたのだと思います。この時代に、第1次世界大戦があり、その後の景気は失速しましたが、山崎惣吉商店は都内有数の金属商へと発展しました。
 震災では店も自宅も焼失し、一時埼玉に疎開しました。2週間後に戻り、焼け跡から真鍮材を掘り出し、商売を再開しました。震災復興で金属製品への需要が高まりましたが、「おごらず、常に準備を、倹約を」と堅く商売を進め、それがのちの力へとなったのです。
 非鉄金属は相場の影響を受けやすく、それでつぶれた会社も少なくありません。それで在庫をなくすことのできる、サプライヤ―を目指しました。戦時経済になって行き、物資統制などで業者統合も進み、軍需工場化し、結局、会社を譲渡しましたが、人望があったのでしょう、業界の世話役は続けました。
 戦後は、「できるだけ早く再開を」と、終戦の翌年1946年1月に営業を再開しました。2代目は情の篤い人だったと聞いています。父は「お葬式の時は声をあげて泣いている人が大勢いた」と言っていました。また「人間は50歳すぎて伸びる人間と下がる人間の2通りいる。年齢だけではない」と聞かされていたとも。信仰心も深い人でした。また、当時は使用人と言っても丁稚奉公のようなものでしたから、店に住み、祖母を母親のように思っていた、と聞いたこともあります。
 亡くなる直前に現在の本社ビルが完成しました。
【惣吉(和三郎)氏】
【本社ビル】

■3代目 豊( ~昭和51[1976]年没)

 叔母の夫だった豊が養子となり3代目になりました。実家は証券会社で、本人も起業するなど新しい発想の持ち主でした。当社が1966年(昭和41年)にコンピューターを入れたのもそうした発想からです。当時は外注しようにも会社の外にそんな業者はいませんから、プログラマーを自前で育成。この時期から大卒を雇うようになりました。おかげで、経理事務の合理化から現在の山崎情報産業へと発展しました。同時に2代目の「商売は情にあり」の教えも守っていきました。
 戦後電気関係の発展が目に見えていましたので、アルミニウム関係へ進出したり、神田の店で行っていた物流を厚木に移し、店頭の小売りは止めました。3代目は51歳の若さで亡くなりました。
【豊氏】
【山崎情報産業の電算機】

■4代目 山崎育四郎( ~平成20[2008]年没)

 父は2代目の二男です。長男が学究の道に入ったので、42歳で社長を継ぎました。前に第1次石油危機があり、継いでから3年後に第2次石油ショックに襲われました。日本経済は低成長時代を迎えました。父は「シェア拡大、利益率向上、生産性向上、省力化」を掲げ、エレクトロニクス、精密機器分野へ手を伸ばして行きました。会社の歴史を見ると、拡大と整理を繰り返していますが、経営について父からは「自分で作った会社ならリスクをとれるけど、違うから(何にでも手を出すようなことは)やってはいけない」と堅実経営を言われました。父は55歳で引退して、あとは趣味の鉄道模型三昧に浸りたかったようです。鉄道模型は、美的センスのある母がレイアウト(ジオラマ)作りを手伝っていました。生前、移動させようとして断線してしまい、今は仕舞い込んであります。
【育四郎氏】
【コンピューターの導入で荷役作業を完全自動化した群馬センター】

■5代目 山崎洋一郎(平成15[2003]年就任~ )

 バブル崩壊後の1992年に入社しました。当時「商流」が言われ、流通の地位が低下して、2000年ころから危機感を抱いていました。その中でどうしたら「発展」できるか、何もやらずに降参するわけにはいきません。考え着いた「加工」「海外」に方向を定めました。
「加工」は非鉄金属を中心にし、たとえ失敗しても「人材・設備・ノウハウ」が残ります。付加価値率も流通だけとは大きく違います。2001年から、素材を加工するスリッター切断を導入しました。昔の取引先で引退した方に来てもらいました。今すぐ儲からなくて、1つずつ技術をコレクトして行くのは楽しいですよ。失われた20年の間に、企業も淘汰され、参入しやすくなっています。しかし、社員の拒否反応は想像以上でした。長年教え込まれると、たった5ミリの敷居でもまたげないんですね。
 それと「海外」。自動車などユーザーが海外にシフトし、製造の兵たん(供給)線が延びています。かつてのような企業城下町に関係企業が集中している時代ではありません。である以上、海外での活動も重要です。現在、中国の大連、上海、広州、タイのアユタヤ、インドネシアに拠点を持っています。
 取引先の製造業の経営者からは「商社的機能は残してほしい。そうした要素が残ると今後も展開できる」とアドバイスもいただきました。モノ作りもお客様を回って、「こんなものが出来たら…」とアイデアを出し合い、やってみる。その目利きがありがたがられます。その上、新しい分野に進出できます。
 理想が実現するには10年以上かかると思います。
 趣味は「囲碁、中国語、ピアノ」です。中国語は中国での宴会でしゃべれないとつまらないと始めました。ピアノは2005年ころからで、今はバッハの「インベンション」を始めたばかりですが、初めて面白いと思っています。いずれも「ボケ防止にいい」と読んだのがきっかけです。「同じことを繰り返していると劣化する」というのは経営も同じですね。
 後継ぎ候補は、12歳年下の従兄弟が社内にいますし、子どももこの春から高校生の娘と小学生の息子がいます。
 
――山崎金属産業のある岩本町の一角は「金物通り」と呼ばれ、今も金物関係の企業の集積地。同社のわきにはかつて関東大震災のがれき処理で埋められた竜閑川があり、4代目は子どもの頃遊んでいたと聞いた。物流の拠点は同時に情報の拠点でもある。集積は競争、情報は未来へのヒント、その中で切磋琢磨して、それぞれの会社の今日があることを教えられた。
【洋一郎氏】
【神田神社総代姿】
●山崎金属産業株式会社
千代田区岩本町1-8-11(本社)
電話:03-5687-2151
http://www.yamakin.co.jp/

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