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百年企業のれん三代記

神田で三代以上のれんを守ってきた老舗にスポットをあて、初代から現在に至るまでの歴史を写真と文章でご紹介します。

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第37回 株式会社有斐閣

お話:5代目 江草 忠敬さん、6代目 貞治さん(記事公開日:2014年4月30日、文:竹田令二)

■はじめに

――「有斐閣」と聞いて、ちょっと身構えてしまった。法律書の専門出版社、いやでも六法全書のあの厚さと、細かい字と、難しい法律の条文が頭に浮かんだ。神田で最初に開業して、同じ地で137年。天皇機関説事件もその歴史の中にある。
【出版物の一例】

■初代 江草 斧太郎(安政4年[1857]生~明治41年[1908]没)

 初代は忍藩(埼玉県行田市)の微録の御徒士の息子でした。明治維新で生活は苦しく、苦労したようです。禄が政府からの金禄公債となり、それを売って手にした50円を持って上京しました。忍藩は教育熱心で、藩校を卒業した人たちが東京で成功していたので、その伝手でしょう、明治7[1874]年に、日本橋の「慶雲堂」の店員になりました。この店の主人は英文和訳出版などもしていたので、古本の売買、値付けなどとともに、出版の知識も吸収しました。
 当時は人出の多い日本橋や京橋が出版の中心でした。江戸見物の帰りの土産に浮世絵、絵草子など重さが苦にならない土産が人気でした。神田、一ツ橋地域には外国の文献を訳したりする「蕃書調所」があり、周辺に全国各藩から勉学に励む学生が集まり始めました。明治維新で、武家の屋敷地が払い下げられ、次々と法律大学を興りとする大学が開校されましたが、当時の地図に書店は1軒も見あたりません。初代は明治10年[1877]に独立し、「有史閣」を当時の一ツ橋通町4の今の地の長屋で開業しました。出版社進出1号です。戸板に本を並べて売ったのですが、学生がたくさん住む町ですから、要らなくなる本、必要になる本の需要はあり、早くも翌年には古本買い取りの広告を新聞に載せるほどでした。
 創業2年目に「有史閣」から「有斐閣」に変えました。故郷の恩師の嵩古香から、四書の一つ「大学」にある「有斐君子」と呼ばれるような学者と一心同体になって努力精進するよう諭されたことからでした。それで学術書の出版を心がけるようになりました。
 初代夫婦は面倒見のいい人で、学生の相談に乗ったり、“出世払い”でお金も貸したそうです。将来、出世したら出版させてもらおうという“読み”もあったと思いますが。明治20年[1887]に法学書のはじめとなる江木衷著「現行刑法汎論」を出版しました。この頃になると、多くの分野の学会が誕生し始めます。当社は積極的に研究論文や学会での報告が掲載される学会誌の出版を受けるようになります。おかげで幅広い人脈が次々にできます。初代は大きなレールを敷いてくださった。おかげで今があります。出版も「人」が財産です。
【江草 斧太郎氏】
【戸板売り時代の店のスケッチ】

■2代目 重忠(明治8年[1875]生~昭和19[1944]年没)

 三重県員弁郡の出身で、初代の妻・茂登の弟の家に下宿していた縁で、長女の千代と結婚しました。東大の農学部の出身で農商務省に勤めていたのを、初代が忙しくなったからでしょう、有斐閣に入店しました。後見人も支配人もしっかりしており、順調に発展しました。一方、毎日のように支配人と共に神保町界隈の古書店を巡り、当店発行の古書値をチェックし無駄な在庫を増やさないよう増刷の有無を決める苦労をしたそうです。
 私の父でもある3代目の話では、2代目は農学部出らしく「出版業は農業と一緒だ。出版物は人の心を耕す最高のもの、それを扱うのが出版人であり、出版経営者の務めである。また、人間関係を耕すことによっていいものが出来る。若い人を苗木のように育てていくことが大事。間引きし、周囲の雑草も刈らなければ優秀な研究者は育たない」と。
 関東大震災で店は焼けましたが、3階建てのコンクリート倉庫は焼け残り、在庫や資材は残りました。2代目は震災後の神保町周辺の区画整理にも携わりましたが、その際、出版社・書店にとってコンクリート建築の長所を説き、その意見を入れ、戦災被害を逃れた古書店もあったようです。昭和8年[1933]に、家督を養子の3代目の四郎に譲りましたが、店の経営は3代目と2人3脚で進めました。
 時局がきな臭くなってきた昭和10年[1935]には、天皇機関説事件が起り、美濃部達吉博士の「憲法撮要」と「逐条憲法精義」が発禁頒布禁止となり、本の回収もせざるを得ませんでした。しかし、3代目が美濃部博士の下に行き「必ず復刊します」と約束しました。人望を集めた2代目は戦時統制下では配給会社日本出版の社長を務めましたが、戦争の最中に亡くなりました。
【重忠氏】
【執筆者を描いた岡本一平の漫画。右下、右から2番目に美濃部達吉】

■3代目 四郎 (明治33年[1900]生~平成4[1992]年没)

 実父です。神戸・三宮の呉服商の生まれですが、家が投機で失敗したと聞いています。神戸に行った時、生地を調べたら、三宮の大通りになっていました。三高から東大の英米法学科に進みました。3番の成績だったが、英米法には学生が3人しかいなかったとか(笑)。父は子どもの頃体が弱く、鍛えるために謡曲を習いました。2代目も謡いを習っており、そのつながりで娘の英子と結婚しました。2代目には「法律専門家」というのも狙いにあったのでしょうか。
 父は台湾総督府を皮切りに、役人人生に乗り出したのですが、鳥取県の課長を最後に昭和4年[1929]に入店しました。しかし、当時支配人の力が強く、思い切った企画が出来ないと悩んでいたようです。「それなら」と、2代目が海外旅行を勧めました。昭和7年[1932]年7月から翌8年12月までの1年8ヵ月間、欧州などの出版事情を調べるために渡航しました。昭和8年[1933]2月4日には、ジュネーブの国際連盟で日本満州支配に対するリットン調査団報告が採決され、日本の松岡洋右代表が抗議・議場を去るのを傍聴していたそうです。
 出版事情調査中に、法律の逐条解説(コンメンタール)の発想を得、昭和30年代になってその企画が実現しました。出版は企画から刊行にこぎ着けるまで長い時間がかかるのです。例えば、毎日出版文化賞特別賞を受賞した、不動の名声を博した「法律学全集」は昭和32年[1957]に始め、昭和60年[1985]にようやく完結しました。
 戦争中は、活版のもとになる原本や紙型などを、岩波書店から割り当てを分けてもらった貨車で、長野県佐久郡田口村(現・佐久市臼田町)に疎開させました。特に紙型の疎開は、戦後の出版活動再開に大きな役割を果たしました。昨年[2013]世話になった疎開先の貸借契約を終えました。
 店は戦災で焼けましたが、創業以来4度目の被災ですね。隣の救世軍はレンガ建てで焼夷弾がそこの屋根にぶつかってはね返ってきて……、倉庫は残りましたが。戦争が終わって、本格的出版を始めたのは昭和21年[1946]、美濃部博士と約束した「改訂憲法撮要」が戦後最初の出版物でした。
 3代目は昭和25年[1950]の株式会社への移行、税務対策に追われながらも、六法全書の復刊(昭和23年[1948])にも精力を注ぎ、戦後の法律分野の出版方針の基礎を構築した功労者といえます。
【四郎氏】
【天皇機関説問題で発禁となり、戦後すぐに復刊した美濃部達吉著『憲法撮要』(画像左)と最初の六法全書(画像右)】

■4代目 忠允(昭和6年[1931]生~昭和59[1984]年没)

 兄は東京大学経済学を卒業後第一物産(現三井物産)へ、昭和34年[1959]当社に入社、創業90周年を機会に昭和42年[1967]4代目社長に就任しました。1970年代は第一次ベビーブームの世代が大学に入った時代となり業界の景気は上向き、当社も大学向けテキストなどの恩恵を受け右上がりの時代を迎えました。3代目の念願であった新社屋も竣工もなされました。しかし、世相は全共闘、大学紛争を迎え出版界も巻き込まれていきます。近代的な組織運営が構築されないまま出版界は拡大路線をとります。当社も得意な分野以外に手を染めましたが、数年後には今までにない在庫の山を持ち資産の食い潰しとなりました。業績不振、労使紛争という両波で兄は身体を壊し53歳の若さで世を去りました。とても辛かったと思います。
【忠允氏】

■5代目 忠敬(昭和58年[1983]就任~ )

 昭和58年[1983]に兄の後を継ぎました。「収益の源は社内にあり」を旗しるしに危機的状況から脱するため、外部から有能な人材を招き二人三脚で改革に取り組みましたが整理撤退に要した損失エネルギーは計りしれませんでした。
 最初に手がけたのは静岡県の三島に編集部の主要メンバーと合宿し、今後の出版方針の周知徹底でした。当時方針に外れた原稿を著者にお返しする辛さは今でも忘れられません。退職定年制制度がありませんでしたが就任4年後に定年制の導入がなされました。導入前はいわゆる肩たたきを当時せざるを得ず大変つらい思いをしました。同時に全部門の総点検の上改革案をまとめ、昭和59年[1984]に第一次長期経営計画(再建5ヶ年計画)を発表いたしました。以来この長期経営計画のタイトルは、体質強化、事業再構築、サバイバル、基盤強化、スクラム&トライと名づけられ推進いたしております。また社内に向けて諸係数の公表と周知、組織的に計画を遂行できる組織体制の構築、社員そして組合と徹底的な話し合いをすることなど会社運営に必要な基本的な事柄を着実に進めた結果、昭和59年[1984]以降は一回の挫折もなく137周年を迎えようといたしております。親から与えられた健康を糧に与えられたことは成し遂げられたと思う一方、締めくくりは後継者問題でした。タイミングは70歳をめどにすること、養成に少なくとも7~8年は要すると考えました。そのめどが立ち、平成19年[2007年]創業130年を迎えた年に現社長にバトンタッチいたしました。
【忠敬氏】
【現在の本社ビル】

■6代目 貞治(平成10年[1998]就任~ )

 2007年に社長に就任しました。忠敬前社長の姉の長男で、養子になりました。
 大学がこれからの時代どうなるかで、当社の方向も変わっていくと思います。よく「最近の学生は本を読まない」「勉強しない」という声を聞きますが、「学生を引き上げたい」と情熱を傾けている先生方もいらっしゃいます。そうした先生は今までの全国一律のテキストを使った講義ではなく、様々なレジュメを作るなど工夫していらっしゃいます。何かお手伝いできることはないかと考えています。テキストも教え方に合わせて、専門、中級、初級向けに分けてできないかなど今の時代に合わせた取り組みが必要です。
 読者層も、研究者=学問深化を世に問う、教育者=学生に教えやすく、個人=自分のために読む、と分かれています。こうした「多層化」のどこにポイントを定めるかが難しいですね。
 ロースクールが出来て、4~5年は追い風になりました。意欲も資金的余裕もある社会人の挑戦者がいたことも大きいです。しかし、旧制度は司法試験浪人が多く、市場としては大きかったのですが、新制度では受験回数の制限があり市場として縮小し、もはや追い風はありません。高校生や保護者に対し「法学部は暗記ばかりで、アウトプットがない」などとアドバイスする予備校もあると聞きます。教える側からも「記憶する、考えるだけでなく、アウトプットの機会を増すべき」という声も出ています。
 専門書出版界が経験したことのない困難な状況で、各社試行錯誤していますが、ゼロから創業し直す覚悟です。
 一方、これまで積み重ねた財産をより利用しやすくするために、2000年に「電子メディア開発室」を発足させ、エース級の人材を投入して、デジタル提供を始めています。例えば古い法律の制定時の議論などに立ち返るために、当時の資料を提供する責任があると思っています。その一例としては、4月から昭和32年[1957]以降の六法全書をオンライン化します。法の変遷がわかりやすくなります。また「YDC1000」というオンラインサービスもあります。東日本震災直後は原子力補償の資料も無料公開しました。ICTの活用次第で広く役立てると、大いに期待しています。
 娘が2人いますが、有斐閣の理念を大切にしてくれるならば、将来を担う人は「身内でも社内でも良い」と思っています。
 
――「人を育てる」。効率、スピードなどという言葉ばかり声高に語られるなかで、人と人のつながりを代を超えて育ててきた話が、何とも新鮮に響いた。「出版は長い時間がかかる」、言い換えれば文化は長い時間をかけ、育てていくものということでもある。
【貞治氏】
【電子データ化された判例集】
●株式会社有斐閣
千代田区神田神保町2-17
電話:03-3264-1312
http://www.yuhikaku.co.jp/

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