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百年企業のれん三代記

神田で三代以上のれんを守ってきた老舗にスポットをあて、初代から現在に至るまでの歴史を写真と文章でご紹介します。

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第38回 株式会社伊勢半

お話:社長 澤田晴子さん (記事公開日2014年6月27日、文:竹田令二)

■はじめに

今回特別企画として、千代田区四番町にある株式会社伊勢半様にお話を伺いました。
 
――同じような色でも、「赤」に対し「紅」には情がある。口紅、頬紅……、女性を生き生きと美しくする魔術。伝統の紅作りは、水上勉の「紅花物語」に詳しい。山形県の最上地方で育てた黄色い花からいくつもの工程を経て生みだされる紅。江戸時代「紅一匁目は金一匁目」とまでいわれ、裕福な人たちだけが厚く重ねて、玉虫色の妖しい光沢の唇にする贅沢を許された。恵まれない人たちは、墨を薄く塗った上に紅を少しだけ塗った。切ないまでの紅に対する思いだ。伊勢半は、江戸から続く唯一の「紅屋」として「紅の文化」を守り伝える一方、厳しい競争の化粧品業界で、日々生き残りへの挑戦を続ける。
【浮世絵「今様美人拾二景てごわそう」溪斎英泉・画(伊勢半本店紅ミュージアム所蔵)】

■初代 澤田 半右衛門( ~天保13[1842]年没)

 現在の埼玉県川越から、日本橋の紅屋に紅作りの修行にきました。知識を仕込み、腕を磨き、独立したのが文政8[1825]年、35歳の時です。呉服屋さんの株を買い、屋号が「伊勢屋」、それで「伊勢屋半右衛門」伊勢半となりました。
 紅作りは、紅花から始まります。紅花といっても、とげのある黄色の花です。とげの柔らかい朝のうちに摘みます。約1500個の花から取れる紅は紅猪口1つ分くらいです。その花から99%ある黄色の色素を洗い流します。さらに4~5日の間、天日で干しては水をかけ、発酵させます。ここで紅が発色します。臼でついて紅餅にして干し、さらに色を出します。ここまでが紅花農家の作業です。
 その紅餅にアルカリを作用させ、紅の色素を抽出、濃縮して、酸を加えます。ここが腕の見せどころで、色の調子が決まります。初代は工夫を重ね、京紅に負けない玉虫色に輝く「小町紅」を生み出しました。
 紅の製造・販売の主体は長く京都にあり、江戸では下りものの紅を扱う店や、京都の紅屋の出店が目立ちました。しかし、江戸時代後期になると、江戸の地でも紅の製造・販売が行われるようになり、初代が日本橋小舟町に店を構えたのはちょうどこの頃のことでした。当社は今も山形県・最上地方の紅花から紅を作り、口紅に使っています。紅作りは一子相伝、家督を継いだ当主と一部の職人にのみ伝えられています。
【澤田半右衛門氏 】
【明治期の店舗(「東京商工博覧絵」下巻。国立国会図書館所蔵)】

■2代目 定七( ~明治14[1881]年没)

 半右衛門の長男です。父の工夫によって生み出された光沢のある紅の色をいっそう洗練された光彩にしたと伝えられています。紅の色、光沢は流行もあって、紅屋は競い合いました。歌舞伎役者や吉原の太夫などが流行を作っていました。いい色を出すさじ加減を職人は誰にも見せません。企業秘密でした。2代目は天才肌の人で、父親の腕を上回ったと言われています。
 ただし、天才肌の名人気質なるがゆえに経営には不向きであったようで、当主になってから10年余りで弟に家督を譲ります。
【紅の工程1:紅の元となる紅花。紅色の色素はわずか1%しか含まれていない。摘んだ花を手でよく揉みながら黄色い色素を洗い流し、日陰で朝・昼・晩と水を打ちながら発酵させる。発酵が進むにつれ、花弁の赤味が強くなる】
【紅の工程2:発酵した花弁を臼に入れて搗き、いったん団子状に丸めてから煎餅状に潰す。画像はこれを乾燥させた紅餅】

■3代目 半右衛門( ~明治24[1891]年没)

 2代目の弟です。実直な人柄でした。お菓子などに使う食紅「御料紅」や、歯磨き粉に紅を入れたり、紅染めを行ったりと紅の間口を広げました。紅は「血の道の改善」や抗菌作用などの薬の一面もありました。
 1年で一番寒い時期に作られる紅は、色も鮮やかで、薬効もありました。江戸では「撫で牛」という信仰がありました。牛の置物を撫でて、病気を治すというものですが、「寒中の丑の日」に作られた紅と、この「撫で牛」を結びつけ、牛の置物を販促品としてつけ、「寒中牛紅」として売り出し大当たりをとりました。
【紅の工程3:紅餅を水に浸け、アルカリ溶液と酸液を加え、紅液を作る。紅液に「ゾク」と呼ばれる麻の束を浸し、赤色色素を染め付ける。染め付けたゾクを搾り、赤色色素を取り出す。 画像はゾクに浸す作業の様子】
【紅の工程4:羽二重をかけたセイロに流し入れ、余分な水分を切る。羽二重の上に残った泥状の紅を集め、紅箱に入れて保管する。猪口などの内側に刷く時は、適量の紅を紅箱から取り、画像のように刷毛でムラなく伸ばす。自然乾燥させれば、小町紅の完成】

■4代目 亀之助( ~昭和14[1939]年没)

 この頃、外国から輸入物の化学染料が入ってきました。ほかの紅屋さんたちが廃業したり、輸入物の安いリップスティックへと移って行きましたが、4代目は「紅にずっとこだわる」「紅一筋を守る」と方向転換をしませんでした。江戸からの紅を残した店はわずかでしたから、逆に競争が楽になりました。4代目は明治・大正時代をつないでいきました。
【亀之助氏】

■5代目 要之助( ~大正12[1923]年没)

 経営者として大変優秀な人でした。才覚に優れ、海外にも目を向け順調な経営を続けました。3代目の時に、出資した銀行事業が破綻し、一時危機的状況になったのを立て直しました。伊勢半の店は日本橋からいくつか移転を繰り返していましたが、このころは本所にありました。関東大震災で焼けてしまいますが、昭和2[1927]年に豪壮な新店舗を再建できたのも5代目のおかげでした。しかし、5代目夫婦は関東大震災に巻き込まれ、亡くなりました。後継ぎもいませんでした。
【要之助氏】

■6代目 亀之助( ~平成19[2007]年没)

 5代目の甥になります。「昭和の創業者」といえます。進取の精神に富んだ人でした。
「後継ぎに」と親戚から養子に入りました。実家は優秀な家系で、5~6人いた兄弟の中から何人も医者になっています。本人も上の学校に行かせてもらえると思っていたら大違いで、中学を中退して養子に出されました。伊勢半では厳しい修行が待っていました。午前4時に起き、表を掃除してから、一子相伝の紅作りの修行です。終われば営業。代金の回収に走ります。親代わりの4代目からは「澤田の息子と名乗るな」と言われ、一介の従業員として振るまうよう教育されたと、6代目から聞かされました。
 4代目は「残された時間がない」と厳しく育てたのだと思います。その修業の話が水上勉の小説「紅花物語」に反映されています。舞台になった時に招待された、と話していました。紅花づくりの取材に応じたからです。水上先生にお会いしたいと手紙を出したことがありますが、お返事は貰えませんでした。翌年(平成16[2004]年9月8日)亡くなられたことを知りました。
 6代目は学ぶことが大好きな人でした。字は達筆だし、絵心もあり、弁も立ちました。東京化粧品工業会の会長も務めました。テレビはNHKしか見ませんでした。信仰も篤く、美術書、仏教書などを読んでインデックス化していました。伊勢半を紅屋から総合化粧品会社へと脱皮させた方です。海外の動向などの研究にも熱心で、対面販売が主流の時代に、米国視察でスーパーストアが台頭して、お客様が手にとって気軽に購入できるセルフ方式が登場したのを見て、セルフ式の化粧品容器を考案したりしました。時代を先取りし、業界に紹介する役割も果たしていました。
「KISS ME」という商標を考えたのも6代目の時代、昭和初期です。いきさつはよくわかりません。戦争中は「KISUMI」と登録し直させられたこともあったようです。戦争が終わり、本所の店も焼けてしまい、千代田区の富士見町に移りました。さらに昭和34[1959]年に五番町、そして平成10[1998]年に今の四番町に本社を移しています。
 昭和21[1946]年に「キスミー」の名で口紅を売り出します。食糧難の時代に「唇に栄養をあたえる」と、また、昭和30年ころには「キッスしても落ちない」と宣伝して、主婦連などから“大反響”を浴びました。
 昭和20[1945]年3月10日の東京大空襲で店は焼け、蔵だけは残り、材料が残りました。戦後粗悪品が出回る中で、もの作りにはこだわることが出来ました。「苦しい時ほど、本物を作っていかなければいけない」との考えです。「手を抜くな!」というのが申し送りです。それでもお客様には伝わらないから、よさを宣伝で伝えなければいけないのです。
【亀之助氏】
【「KISS ME」が掲げられた五番町当時の本社】

■7代目 一郎(平成19[2007]年就任)、7代目夫人 晴子(平成21[2009]年就任)

 私は、人材教育の関係の仕事をしておりましたが、結婚後、家業を手伝うべく会社に入社し、新規事業部長に就任いたしました。そこで、初めに何をやるべきかを考えるうちに祖業の「紅」のことを思いつきました。結婚当初、夫から「紅」を手渡され、私どもの祖業が江戸時代から続く紅屋であることを聞いて、驚いたことがございます。実はその時の感銘を思い出しておりました。
 私が入社しました平成15[2003]年に、江戸開府400年のお祭りがございました。そのお祭りの情報を伺うや否や、まず、商工会議所に飛び込み、何か私どもでお手伝いすることが無いかどうかお尋ねしますと「江戸時代の化粧道具などを無料でお見せすることはできないですか」というお話でした。このお話を持ち帰り、人通りのある神田神保町(現在の「本と街の案内所」の場所)で、期間限定の「紅資料館」を開設いたしました。
 神保町の「紅資料館」は、団体の旅行者や、地方から毎月のように本屋街に通っている方などで、ありがたいことに先客万来の状況でした。お祭りに出掛ける若い女性やお子様たちには、紅を塗って差し上げました。また、町の方々からは、祭り袢纏やお赤飯を差し入れて頂いたり大変お世話になりました。
 社内において、「紅」や「紅の文化」について、残念な事に詳しい人が非常に少なくなっていることに気づきました。江戸から続く最後の紅屋として私どもが、これを守り伝えることを断念してしまいますと、「紅」の製造方法も「紅の文化」もすべて消失してしまうという危機感を持ちました。まず、自分の勉強も含めて、社員教育を試みようと考えました。
 また、この素晴らしい日本の「紅」や「紅の文化」を後世に残すためには、お客様の生活に入り込まなければと感じました。“魔を祓い 幸せを祈る「紅」”の存在を、出来れば、昔からそうであったように、お宮参り・七五三・結婚式など神社仏閣でのお祝い事などに組み込んで頂く必要があると感じたのです。
 平成17[2005]年に南青山に「伊勢半本店紅ミュージアム」を開館しました。仮設の神保町から移設し、小さなスペースではありますが建物の手当てが出来た南青山に気構えを持ってミュージアムを開館いたしました。
そこでは、化粧料としての「紅」やその化粧法、化粧道具だけでなく、御料紅(食紅)や、衣料用の紅、細工紅(浮世絵用の紅)などの「紅」に纏わる文化や歴史をご紹介しています。また、昨今では、“江戸”や“日本の技”を切り口に、日本の工芸なども親しんで頂くことを願ってご紹介しています。
コツコツと年月を掛けて積み重ねることで、「紅」についての社員教育も進みました。
 祖業についての教育を全社員に徹底することで、自信やプライドのようなものが育って行ったと思います。「守るべきものは、きっちりと守り、新しいものにも飽くなき挑戦を行う」といった社風が出来つつあるように思います。
 化粧品業界は、外資や異業種からの参入もあり非常に厳しい経営環境にあります。その中で中小企業の私どもが生き残るためには、本当にお客様にとってなくてはならい「オンリーワン企業」をめざす以外、生き残りの道はないものと思います。
 きっちりと収益を上げる方法を検討しながらも、お客様にとっての存在価値を常に模索し、市場に挑戦しなければなりません。
 私どもの5代目も6代目も早くから、海外貿易を施行しておりました。そうして、中国に工場建設を行ったのも既に27年前になります。
 日本国内の少子高齢化や人口減が急速に進む中、どちらの化粧品会社様もそうであるように、私どももここに来て積極的に海外事業にも力を注いでおります。東南アジア、中でも台湾・香港・韓国を中心に十数カ国に商品を展開し、遅ればせながら市場をグローバルに捉えなければと思って歩んでおります。
 海外にも展開する商品として、「ヒロインメイク」というアイメイクを中心とするブランドがあります。これは、お姫様キャラクターの姫子が、美の掟や商品の使い心地、その使い方を伝道するストーリーです。アニメブームに乗った斬新さに留まらず、日本国内では使用感の点で、クチコミサイトでNO.1を受賞するなど、私どもにとっての自信作ですが、同時に東南アジア諸国でも大変人気を博しています。台湾では、宣伝PRとして「ヒロインメイク」のラッピングバスを市内に200台程走らせ、テレビにて「ヒロインコンテスト」も開催されているとのことです。また、SNS(facebook、Twitter、ブログなど)を使って、こうした情報が今や世界中に拡散され、その恩恵も少なからず受けております。弊社も今後は、更にデジタルマーケティングについての研究も深め、お客様との効果的なコミュニケーションの方法を確立したいと思います。
 
――薬指のことを小さい子どもの頃は「お姉さん指」と呼んだ。またの呼び名を「紅指」。紅を塗る際に使った、と言われる。薬指で塗るまねをしてみても、他の指に比べ、力が入りづらい。力が入らないのがいい、という説もある。やさしく唇に触れ、艶やかさが増す。紅は、やはり情がある。
 
【一郎氏と晴子氏】
【ヒロインメイクシリーズ】
●株式会社伊勢半
千代田区四番町6-11
電話:03-3262-3111(代表)
http://www.isehan.co.jp/

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