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百年企業のれん三代記

神田で三代以上のれんを守ってきた老舗にスポットをあて、初代から現在に至るまでの歴史を写真と文章でご紹介します。

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第39回 株式会社東京堂

お話:8代目 大橋信夫さん(記事公開日:2014年7月9日、文:竹田令二)

■はじめに

――東京堂は、第2次世界大戦前の四大取次店として、雑誌を中心に日本の出版流通をリードしてきた。その歴史は、大衆文化の全国普及に大きく寄与した出版・出版流通界の歴史でもある。
【東京堂のシンボルマーク・フクロウ】

■0代 大橋 佐平( ~明治34年[1901]没)

 佐平翁抜きに東京堂は語れません。佐平翁は初代高橋新一郎の義兄で、明治19[1882]年に長岡から単身上京、翌年に本郷に博文館を開業、「日本大家論集」など1年半に10種類の雑誌を出し、わずか9カ月で525円の純資産を築いたそうです。さらに、「書籍の販売も」と妻、松子の弟で、高橋家の養子になっていた新一郎を呼び寄せました。佐平翁はもともとは「渡辺」姓でしたが、父親が宗旨替えをし、菩提寺にあった廃絶していた「大橋」に改姓したとのことです。明治維新のころで、地元で小学校を作ったり、郵便局長をしたり、新聞社や書店をやってみたりしたあとでの上京でした。剛毅、機敏で、先見の明があった、と伝わっています。
【大橋佐平氏】

■初代 高橋 新一郎( ~大正14年[1926]没)

 43歳のときに上京し、表神保町3番地の呉服屋の空き店を借り、東京堂を開業しました。「東京堂」は新一郎の命名です。博文館の仕事も手伝いながらです。店は間口3間で、本だけでなく、錦絵や絵草子、文房具や石鹸まで売っていました。非常に筆まめな人で、売り上げはもとより物品の値段などに細かい記録が残り、会社の歴史ばかりか出版業の歴史の資料としても大いに役立っています。足に骨膜炎があり、東京堂の基礎が出来ると、明治24[1891]年5月に「家業がある」と湯沢に帰ってしまいました。
【高橋新一郎氏】
【創業当時の金銭出納簿】

■2代目 大橋 省吾( ~明治44[1911]年)

 佐平翁の息子です。高橋新一郎の娘かう子と結婚、高橋家の養子になりましたが、のちに大橋姓に戻っています。明治22[1889]年に上京し、博文館で広告宣伝を手伝います。新聞広告で斬新なものを考えだしました。しかし、初代が帰郷してしまったので、博文館をやめ、2代目となりました。経営に携わったのは19年7カ月しかありませんでしたが、「才覚があり、目先がきいた方」という印象で、とにかくすごい人だったと思います。
 2代目を引き継ぐとすぐに卸売業(取次業)も始めます。博文館が全国の主要書店と取引があり、販売網がある程度できていました。他社の商品も扱えば出版元にも書店にも喜んでもらえる、との狙いでした。同時に宣伝用の「月報」を作り無料配布します。表紙裏には相手の店の名をあげて未払い請求書を載せました。派手好きでしたが、お金には厳しい人でした。東京堂は、開業以来手形を出さず、すべて現金払いでした。「金に堅い東京堂」と信用を高めましたが、資金繰りは大変だったようで、日露戦争の頃にやっと楽になったようです。
 このころの出版業界は、取次店がせり市で本を買い付け、発送しました。製本所に駆けつけ、できた端から梱包し、他社よりも少しでも早く鉄道便で送るスタイルです。1日に6~7回も運んだという話もあります。また、店頭では値引き販売で、店員は、本の発行所と割引率を覚えていなければなりません。自分の担当する棚のどこにどの本があり、割引率はいくら、ということを頭に叩き込んでいました。
 日清戦争から日露戦争の時代は雑誌が大いに発展した時代です。小説も書けば売れ、近代文学が国民に浸透した時代でもありました。印刷技術も発展し、取次の役割も大きくなってきました。当然、安売り競争が雑誌を中心に激化してきました。業界で話し合いもありましたが、うまくいかなかったようです。
 明治30[1897]年に2代目は雑誌輸送の鉄道運賃値下げ運動の先頭に立ちます。翌31[1898]年からは距離にかかわらない均一運賃を獲得しました。雑誌の全国平等な普及に役立ちました。
 明治32[1899]年ころから、体調を崩します。42[1909]年からは鎌倉で療養生活となり、44[1911]年1月に亡くなります。亡くなる前日、母親が見舞いに訪れた時の写真がありますが、病床から起き上がって撮った写真があります。無理して起き上がったことが、寿命を縮めたのかもしれません。
 会社に出られなくなっても、支配人以下がやっていけるように規則などを細かく決めしました。その中に給与や勤務時間を定めた「東京堂規定」というのがあります。明治35[1902]年ころにできたもので、今の就業規則です。「丁稚奉公」が当たり前の時代に……、先見性を感じます。
 また、店員の教育にも関心が高い人でした。その考えを引き継ぎ、大野孫平社長時代の大正8[1919]年に社屋の一角に希望者対象に朝の1時間漢文、英語、書道などを教える塾を開き、さらに昭和2[1927]年に東京堂教習所、10[1935]年に東京堂学園実践商業学校へと発展、現在、中野区にある実践学園につながっています。
【大橋省吾氏】
【明治40年ころの東京堂】

■3代目 大橋 省吾(2代) (明治21[1887]年生~昭和32[1957]年没)、4代目 大橋 正介( ~大正2[1913]年)

 2代目の没後、長男英太郎が継ぎ、2代省吾を名乗りましたが、体が弱く、会社永続のため、東京堂は合資会社となりました。代表社員に就いたのが、省吾の甥に当たる正介でした。慶応大学出でスポーツ選手でもあったのですが、その年、渡米野球団の一員としてハワイから米国への旅行途中に発病、大正2[1913]年に24歳で亡くなりました。在学中で会社に出ることもほとんどなかったそうです。代表社員となり、会社を支えたのは、支配人として迎えられた大野孫平でした。
 合資会社になってから、2代目の時に手を染めた出版事業も、「早稲田文学」を除きやめました。
【大橋省吾(2代)氏】
【大正期の運搬風景】

■5代目 大野 孫平( ~昭和38年[1963]没)

 省吾(初代)の従兄弟です。戦後、小学生の時にお会いした記憶では好々爺という印象でした。「坊や、よく来たね」って言葉をかけてくれました。若いころは大陸でいろいろ苦労され、23歳の時に帰国、一時、療養中の2代目に付き添っていて、人物を信用されたようです。
 東京堂は創業以来3回火事にあって全焼しています。1回目は明治25[1892]年の神田の大火です。その後建てた店舗が傷み、明治44[1911]年4月から改築に取り掛かりました。10月に3階建ての店舗が完成しましたが、翌大正2[1913]年2月、またも神田の大火が起き、新店舗は焼失です。しかし、その日のうちに仮営業所で仕事を再開したばかりか、取引先へも火災保険で支払いをきちんとしたため、かえって信用を高めました。さらに大正12[1923]年の関東大震災です。いち早く再建できたのも日ごろお付き合いしていた建設会社のおかげです。
 このころの悩みの一つが店員の健康管理でした。地方から出てきた青少年の大敵が結核です。本屋は体力派ではありませんから。大正14[1925]年から、少年店員の計画採用を始めたのを機に、毎朝の体操を始め、昭和10[1935]年からはデンマーク体操を取り入れています。野球部は明治末年からありました。昭和14[1939]年の東京堂体操倶楽部には体操部131人を筆頭に野球部、テニス部、バスケット部、バレー部、弓道部、陸上部、水上部の計8クラブ、430人が記録されています。
 大正時代は、定価販売や、返品制など、今日の出版流通の仕組みが出来た時代です。大野がその先頭に立っていました。取次も買い切りから委託販売に変わったおかげで、在庫もなくなり、関東大震災で取次としての被害はありませんでした。
 東京堂が株式会社になったのは大正6[1917]年です。省吾(2代)が会長、大野孫平が代表取締役専務に就任しました。当時の取り扱い雑誌は515点です。昭和16[1941]年、大野は社長に就任します。しかし、切迫してきた時局に、取次は日本出版配給1社に統合され、50年に及ぶ取次の歴史が閉じられ、出版社として生きてゆくことになりました。18[1943]年には「出版事業令」で約3400社あった出版社が約200社に統廃合されました。幸い、当社は残存出来ましたが、用紙の割り当てなどがあり、自由な出版はできません。その中で、統制外の用紙を入手、「世界美術図譜」(日本編12、西洋編12)を出し、すべてを売り切りました。
【大野孫平氏】
【社員によるデンマーク体操】

■6代目 大橋 勇夫( ~昭和42年[1967]没)

 父です。省吾(2代)は幼児期に男の子を亡くし、子どもは娘ばかりでしたので、婿を迎えました。肥料製造販売で豪商と言われた岩出一族の出で、実父は石油販売で成功した人です。創業50年を迎えた昭和15[1940]年に入社、翌年専務に就任しました。19[1944]年8月に召集されましたが、30日に除隊です。外地にゆく船がなかったんでしょうかね。
 戦後の用紙不足の時代、本屋の棚を埋めるのも大変です。父は仕入れを取次任せにしないで、出版社から直接仕入れる道も作りました。「常備委託」です。おかげで、出版不況でも不良在庫に悩まないで済みました。23[1948]年に国立国会図書館法が出来、帝国図書館時代からの実績もあり、東京堂に納本の依頼が来ました。その後各省庁の図書館や自治体への納本も広がりました。
 現在の出版物路線を作ったのは、昭和26[1951]年の「民俗学辞典」と「全国方言辞典」の成功だったでしょう。それまで、辞典は専門家向きという意識でしたが、この成功で、学習や教養・趣味の需要があるのもわかり、その後の各種辞典類の発行に結びついています。「用字用語辞典」とか「反対語辞典」というのも当社が初です。これまでに1000冊近い辞書類を出しています。
 また、父は「出版は出版、販売は販売に徹することが将来の発展に通じる」との考えで、39[1964]年に書店と出版を分離、東京堂は不動産業に取り組む形になりました。書店は2階まで売り場を拡大し、売り上げを伸ばしました。しかし、42[1967]年7月に心筋梗塞で急逝しました。その4年前に、大野孫平前社長が亡くなりましたが、葬儀には病気療養で参列できませんでした。我々からは仰ぎ見るような感じの父でした。
【大橋勇夫氏】
【東條操著「全国方言辞典」と終戦前後の東京堂書店】

■7代目 岩出 貞夫( ~平成7[1995]年没)

 父の実弟です。父の急死で、乳酸菌飲料の容器を作るお兄さんの会社「藤本産業」から来てもらいました。取締役経理部長で、計数に明るい人でした。父の路線を引き継ぎ、昭和51[1976]年11月の九段下・千代田ビル(地下4階地上20階建て)を皮切りに、53[1978]年3月には錦町ビル(9階建て)、56[1981]年4月神保町第2ビル(4階建て)など不動産経営に積極的に取り組み、57[1982]年9月にはすずらん通りの本社ビル神保町第1ビル(地下1階地上6階建て)を完成させました。私が本店長に就任しました。また、45(1970)年に吉祥寺支店も開設しています。
 就任時に「失敗してもいいから、これはと思う販売企画をどんどん出して実行してほしい」と社員に呼び掛け、新しい視点で取り組んでいきました。書店と出版の役員も、生え抜きからも登用しました。また、読書家中心の店作りから女性や若い層もくつろげるように照明を明るくするなどの改装も行いました。
 昭和42[1967]年に大学図書館の整備充実に国庫補助金が出ることになりましたが、翌43[1968]年には10校を超える大学との取引が始まっています。
 飄々とした印象があります。76歳で亡くなりました。体が強くなく、その前日まで日本人の平均余命が76歳でした。当日のニュースで新たな数字が出て、平均余命は延びていましたが。でも、戦争を経験するなど困難な時代を「この年まで生きてきた」との満足感はあったと思います。
【岩出貞夫氏】
【千代田ビルと吉祥寺支店】

■8代目 大橋 信夫(昭和18[1943]年生~ )、9代目 小林 悠一(昭和22[1947]年生~ )

 父が急死したため、将来の後継ぎとして会社に入りました。父からは「好きなことをやったら」といわれ、大学で物理学を専攻しました。父とは仕事を一緒にしたこともないままでした。岩出の叔父が、後継者として育てる意味で手元に置いてくれました。父が亡くなった時、弟は、大学を出て、就職が決まっていました。私は大学院の修士を修了したばかりでした。後継ぎになったのは……、巡りあわせでしょうね。父が元気だったならば、私は学者かメーカーに就職していたでしょうね。
 取次制度は日本独特のものです。本の再販制度は制度疲労の面が出てきています。今後、業界全体の問題として、質の向上とともに考えていかなければなりません。東京堂が作った以上見直しが必要と、日本書籍商業組合連合会の会長になった時、問題提起をしました。連合会の会長は3期6年間やり、全力を投入しました。この間、2011年から2年間弱の間ですが、社長の椅子に小林氏(現東京堂出版社長)に座ってもらいました。
 再販の返品を悪用するケースもあります。「ブロック積み」と言いますが、店頭に四角く高く積み上げます。金にあかせて、本を独り占めしますから、他の書店にその本は回りません。売れ残ると返品です。結局業界の疲弊を招くだけです。
 最近は公共図書館が本屋の競争相手になっています。図書館が貸し出し競争をしています。本の貸し出し回転率が業績評価になるからです。図書館が同じ本を何冊も買います。それで貸し出したほうが回転率の数字が上がるからです。図書館は1冊ずつでいいのではないでしょうか。回転率より、内容的にいいものを保管する機能が大事だと思います。
 あれこれ考えると、このままでは本屋がなくなってしまう気がします。事実、北海道に行くと札幌はともかく、地方にいくと本屋がないところが出て来ています。「電子書籍があるからいい」と言いますが、技術的にもいろいろ問題があります。
 本というのは、結局、人間が原稿用紙のます目を埋めて作るものです。うちが多く出している辞典類では、著者は研究成果を1つずつカードに作っていきます。そのたまり具合を見て手放して(出版して)もらうのです。カードがたまっていると研究者は安心感がありますが、出版すればまた貯めなければならない。そのあたりの呼吸が……、ね。
 平成3[2001]年から、すずらん通りを通行止めにし、ワゴンなどで、在庫が少なくなり出荷できなくなったり、多少の汚損のある本などを値引きして売るブックフェスティバルをはじめ、実行委員長を務めています。「古本まつり」に対し、新刊書籍も“本の街”に協力しようとの狙いです。出版社の人が本を売ります。数冊の在庫は倉庫に寝ているだけで、保管料がかかるだけですから。でも「こんなに安く買えるの」と喜んでいただいています。当然、古書として売れるものも少なからずからずありますから、同業者は買っていけないとの申し合わせをしていますが。
 東京堂は書店→出版→取次→不動産と中心になる業態が変わってきています。不動産も先が見えてきた感じです。「企業30年説」で言えば、それで120年たって、“賞味期限” が来ているのかもしれません。日本人の家の構造が変わり、本を置くようなスペースがなくなるなど、本を買って置いておけない環境です。次は……、電子化もやっていますが、利益は出ないし。まぁ、息子(常務取締役・知広氏)の代に判断を任せようと思っています。
 
【10代目 大橋知広(昭和48[1973]年生~)の話】
 一番最後まで残る本屋になりたいと思っています。適性の大きさの本の森、お客様を迷わせる“知の泉”のある森の本屋です。
 
――辞書辞典は専門家の地道な研究の成果として「確かな情報」である。「確かな情報」があってこそ、「確かな文化」を築くことができる。しかし、置かれた状況は厳しい。出版界の制度疲労もあるし、消費税増税など、経済的な向かい風もある。見送られた軽減税率は今後に残っており、本を愛する私たちも無関心ではいられない。“知の泉”を枯らしてはならないはずだ。
【画像上:大橋信夫氏、画像下:小林悠一氏】
【画像上:大橋知広氏、画像中:本店に掲げられたフクロウのレリーフ、画像下:神田本店全景】
●株式会社東京堂
千代田区神田神保町1-17(神保町本社)
電話:03-3291-5185
http://www.tokyodoshoten.co.jp/

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