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百年企業のれん三代記

神田で三代以上のれんを守ってきた老舗にスポットをあて、初代から現在に至るまでの歴史を写真と文章でご紹介します。

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第44回 株式会社オーム社

お話:12代目 村上 和夫さん(記事公開日:9月29日、文:竹田令二)

■はじめに

――神田といったら、書店・出版、大学、そして電気の街・秋葉原。オーム社はこの3つを“合体”した形で、昨年100年を超えた。
【社章と看板】

■初代 廣田 精一(大正3[1914]年就任~同11[1922]年退任、昭和6[1931]年没)

 当社は大正3[1914]年11月1日に廣田精一によって創立されました。廣田は広島県福山の出身で、明治29[1896]年(東京電力の前身の東京電灯会社開業の年)に東京帝国大学電気工学科を卒業、商社在籍のままドイツのシーメンス・ハルスケに入社。帰国後の明治40[1907]年、「多くの実地に役立つ電気技術者が必要であり、その教育・養成が焦眉の急」と、大学の6年後輩の扇本眞吉とともに、電気学校(現・東京電機大学)を創立しました。教育・知識普及のために関係書籍、講義録などの出版も必要と、出版部も設置しましたのが当社の前身です。看板の電気雑誌「OHM」は、電気知識を広めるためにと創刊しました。公器たる雑誌に大学の名を掲げるのはよろしくないとの理由から「オーム社」名で出版することになりました。東京帝大電気工学科⇒電機学校⇒オーム社誕生という流れです。
 社名は電気抵抗の「オームの法則」を発見したドイツの物理学者、ゲオルク・ジーモン・オームにちなんでいます。社名については、中央に廣田の「H」、左に電機学校の校長だった扇本の「O」、右に教頭の丸山莠三の「M」と3人の頭文字を並べたとも言われています。
 廣田の「OHM」への熱の入れ方を示すエピソードがあります。「OHM」の大きさを『菊倍判』にしたことです。「下積みにされてもはみ出し、見落とされる心配がない」との理由です。創刊号には、現在の電気主任技術者国家試験にあたる逓試の試験問題と解答が掲載されました。全解答を載せたのは「OHM」が初めてでした。2号までは文字が縦組みでしたが、3号からは読みやすいようにと横組みになりました。
 廣田はチャレンジ精神の旺盛な人物だったようです。「100年小史」を編纂の際には、お孫さんからエジソンに会った際のエピソードをお聞きしました。「祖父はエジソンに会う機会を得た際、電気自動車など聞きたいことをしっかり整理して臨んだのですが、……会ったその瞬間、感激のあまり頭の中が真っ白になり、何一つ聞けなかったそうです」と。
 大正9[1920]年、廣田は当時の文部省から、新設されることになる神戸高等工業学校(神戸大工学部)の校長就任を打診されます。熟考の末に受諾し、あとを浪岡具雄に託しました。
【廣田 精一氏】
【「OHM」創刊号】

■2代目 浪岡 具雄(大正11[1922]年就任~昭和9[1934]年退任、同18[1943]年没)

 浪岡は雑誌「電気の友」に関係した経験があり、進歩的なジャーナリストでしたが、廣田の懇請で大正11[1922]年3月にオーム社の主幹に就任します。電機学校の一部のように見られていたオーム社ですが、大正11[1922]年9月に電機学校から独立、株式会社として新たなスタートを切りました。株主は44名でうち43名は電気学校職員。浪岡は代表取締役専務に就任しました。スタートした1期目は6700円の利益を計上、15%の株主配当をしています。当社で株主配当をできなかったのは、大正12[1923]年9月に関東大震災があった1期だけです。
 その関東大震災で、電機学校に隣接した木造の社屋は全焼。少年社員が購読予約カードを持って避難したため、営業的にはなんとかなったのですが、印刷所も全焼、東京での印刷は絶望的になりました。そんななか、大阪に知人の多かった浪岡は大阪での印刷を決意し、印刷所確保に社員を向かわせました。おかげで若干発行は遅れましたが、「特別震災特集号」を発行することができました。
 東京では、電機学校の一角に仮住まいし、大阪での印刷に不便を感じていました。そこで電機学校の校舎のフロア145.75坪(480.9平方メートル)を借り、新たな事務室と印刷工場としました。
「OHM」は大正15[1925]年に漢文・英文欄を設け、海外にも報道するようになり、昭和6[1931]年には独語、エスペラント、ローマ字、カナ文字、仏語、露語なども加え、“グローバル化“を図っています。浪岡の理念が、今に至る海外出版社などとの交流の礎になっています。また、この年に「OHM」は通巻200号を迎え、創刊号以来の200冊すべてをお持ちの読者に社のマーク入り書架を贈呈しています。全国で19人いらっしゃいました。浪岡は創立20周年を終えて社長の座を退きました。
 翌昭和10[1935]年には、浪岡が中心となり、我が国で初めて電気に関する学術的な実験研究をした江戸時代の医師、橋本曇斎(宝暦13[1763]年~天保7[1836]年)の没後100年記念会を大阪の念仏寺(大阪市天王寺区上本町4丁目)で挙行しています。
【浪岡 具雄氏】

■3代目 古賀 広治(昭和9[1934]年就任~昭和22年[1947]年退任、昭和48[1973]年没)

 古賀は佐賀県生まれで東京帝国大学電気工学科の卒業です。「OHM」の編集長として、専門誌としての質的向上に尽力しました。特に、当時の若手電気技術者のエリート中のエリートといわれる5人に毎号読み切りのエッセイを書いてもらう「フッドライト」欄を昭和4[1929]年4月号から昭和9[1934]年6月号まで連載したことで、「OHM」は「日本で重きをなす電気雑誌」の地位を固めることが出来ました。
 就任して1年余で「OHM」は発行部数1万部を突破しました。また、このころは電子工学の黎明期にあたり、電気工学に加えて電子工学関連の書籍発行も増えています。
 社屋は依然として大株主でもある電機学校から借りていたのですが、建築費を自前で調達するならば建ててよいとの了解が得られ、錦町3丁目の現在地に新社屋建築が決まりました。幸い昭和10[1935]年から出版した『電気工事読本』(池田栄一著、全3巻)のヒットで、建築費の半分のめどがつき、残りは関東大震災の直後にできた復興建築助成公社から低利資金を借りました。時は盧溝橋事件の勃発など軍需物資優先となってきており、建築用鉄材は1建物50トンに制限されました。このため、半分を地上3階地下1階の鉄筋コンクリート造、半分は木造2階建てとなりました。
 またこの建築費や印刷機械増設などのため、昭和12[1937]年8月に増資をしました。新株主に雑誌・書籍の寄稿者・著者が目立っています。
 戦争の空気が色濃くなり、昭和15[1940]年新年号から「電気雑誌OHM」は「電気雑誌オーム」と改めましたが、横文字追放の風はますます強まり、昭和17[1942]年には「電気日本」へと改題を余儀なくされます。社名も「電気日本社」となりました。
 戦時体制下ではまず雑誌の統制で昭和15[1940]年当時東京に5つあった電気雑誌を二つに統合するよう迫られ、また、18[1943]年には用紙の割り当て、さらに印刷部門の統合も迫られました。神田地区の中小印刷会社7社で大同印刷を設立しましたが、これが戦後悩みの種となりました。
 昭和20[1945]年2月25日と4月13日、5月23日の空襲で、神田地区は24,000戸の85%が焼失。当社はコンクリート社屋であったこともあり焼夷弾の被弾に耐え、木造社屋も社員の機転などでごく一部を焼いただけで済みました。
 しかし、国策で合同してできた大同印刷の設備は70%以上が焼失しました。終戦直後、東京近郊の印刷工場は90%以上が戦災にあっていました。そんななか、奇跡的に戦火を免れたオーム社出資の印刷設備をめぐり、大同印刷との確執が戦後続くことになります。この問題の責任を取り、古賀は社長を退き、石田に席を譲り、その後オーム社書店の社長に就きました。
 戦時中は書籍の出版活動は低下し、昭和19[1944]年は4点、20[1955]年は1点のみの出版しかできませんでした。
【古賀 広治氏】
【昭和13[1938]年当時の本社ビル】

■4代目 石田 精一(昭和22年[1947]年就任~昭和23[1948]年退任、昭和52[1977]年没)

 そんな状況の中で後を任された石田ですが、社内は何となく落ち着かず、業績も思うに任せず、事態打開に生産と営業を分離するという経営方針を決めます。生産はオーム社、営業はオーム社書店という一体2社制です。しかし、石田は就任1年で辞任します。この2社制は昭和23[1948]年5月から56[1981]年まで続きました。
 昭和22[1947]年の1月には、社名を「オーム社」に戻します。雑誌名を「OHM」へ戻したのは昭和24[1949]年11月でした。12月には「新電気」を創刊しました。「OHM」の姉妹誌ですが、表紙に「電気を正しく分らせる易しい雑誌」とうたっていました。現在は「電験三種の受験、電気設備の現場実務、最新エネルギー・電気技術等の専門誌」としています。
 戦後、電気学校周辺には学生相手に真空管やラジオ部品などを売る露天商が並びました。それが禁止され、秋葉原に移って行きました。これが秋葉原の電気街のはしりとなりました。
【石田 精一氏】

■5代目 田中 剛三郎(昭和23[1948]年就任~昭和43[1968]年退任、昭和59[1984]年没)

 戦後は復興とともに、高度経済成長の時代です。電力事情も好転し、電気への需要は日に日に拡大していきます。それに伴い、当社の出版活動も活発化していきました。新刊の数は23[1948]年に15点だったものが、28[1953]年には59点と4倍増でした。29[1954]年には月商平均1000万円を突破、5年間で2倍の売上高を記録しています。
 昭和29年はゲオルク・ジーモン・オームの生誕100年にあたりました。当社が主体となり、東京・銀座のヤマハホールで100年祭を開催しました。これに合わせ、田中は「Georg Simon Ohmその生涯と業績」を刊行しています。
 田中は茨城県の出身。電機学校で電気工学を学びました。社員時代の昭和4[1929]年に日本電気協会がエジソンの電灯発明50年を記念して実施した「伝統50年の発達と未来」という懸賞論文に応募、入賞しました。頂いた賞金でエジソンに「日本の竹で作った花かご」を贈ったところ、翌年、エジソンから御礼の手紙が届きました。田中はその手紙を宝物のように肌身離さず持ち歩いていたそうです。
 田中は出版文化の国際交流にも力を注ぎ、昭和27[1952]年に「アジア文化交流出版会」の設立に協力し初代理事長に就任。その後、現在の「一般社団法人出版文化国際交流会」へと発展させています。同じ年、日本の独立回復(講和条約締結)を記念し、「オーム技術賞」を創設しました。功績はあるものの、陽の目を見ない技術者に希望と生気をよみがえらせ国家再建の一助を担ってもらう、というのが主旨の賞です。現在は「公益財団法人電気科学技術奨励会」に移管されています。
 昭和30[1955]年には戦中戦後に中断していた「オーム奨学賞」を復活させました。電気主任技術者資格検定試験の第1種合格者に贈るものでした。
 昭和30年代はエレクトロニクス時代の幕開けです。電気をエネルギーとして扱う「強電」(電気工学)から「弱電」(電子工学)が成長し始めました。31[1956]年に月刊電子技術誌「エレクトロニクス」を創刊しました。創刊号は早々と完売しました。
【田中 剛三郎氏】
【画像上:エジソンからの手紙、画像下:昭和38[1963]年ころのオームビル】

■6、8代目 三井 正光(昭和43[1968]年就任~昭和45[1970]年退任)、(昭和48[1973]年再就任~昭和58[1983]年退任)

 三井は長野県出身で、電気学校卒業後海軍技術学校を経て、当社に入社しました。太平洋戦争中は満州に出征し、シベリア抑留も経験しました。2回社長を務めています。1回目の後、オーム社書店の4代目社長に就任し、私が入社した時は復帰した2回目の時でした。無口な人物という印象です。先輩達は皆、社長を怖がっていましたね。労働組合ができて間もないころでしたが、団体交渉にもほとんど出席しませんでした。
 1回目の社長時代の昭和43[1968]年、東側に隣接した敷地に地上6階建ての商品倉庫が完成しました。また、昭和53[1978]年には、老巧化が激しかった昭和12[1937]年竣工の本社ビルに代わり、地上9階地下1階の現本社ビルができました。地権関係に加え、周囲との日照電波障害、騒音問題などに多くの協議の時間を費やしましたが、円満に解決できました。将来の化石燃料枯渇問題も考慮に入れ、全館ヒートポンプによる冷暖房、省エネビルになっています。竣工式で三井は「当社の出版物は、ただ平面的な文化を売るような、出版を志向しておりません。奥行きの広い、深い、7色の紫陽花のような出版物を、……格調の高い文化を売る出版社を志向しています」と挨拶しています。
 昭和40年代に入ると30年代のツケが表面化し始めます。著名な出版社の経営不振、大学紛争、経済の変動などです。一方でコンピュータ時代が花開き始めたころです。「入門FORTRAN」「入門COBOL」などが超ベストセラーになりました。
 昭和56[1981]年には、分離していたオーム社書店を吸収合併し、1体2社制にピリオドを打ちました。
【三井 正光氏】
【昭和53[1978]年完成の本社ビル】

■7代目 須長 文夫(昭和45[1970]年就任~昭和48[1973]年退任)

 須長はオーム社書店に入社し、その後、オーム社に異動しました。業界の名物男で人望があり、営業部長時代に理工系出版社約30社を集め、工学書協会を設立、特約店制度を作り、加盟社の本を書店へ常備する仕組みを作りました。
 新刊書というと、書店に同じ本を大量に積み、客の目を引くのが常套手段ですが、大量に送ると、返品時のリスクも大きくなります。それをたとえば2冊程度送り、1年間は置いてもらい、売れたら補充注文していただきます。他の加盟社も同じですから、いつも理工系の本がまとまった棚があることになります。すると、「あの店は理工系の本がそろっている」という評判になり、その店の「看板」にもなります。さらに専門書が売れる店は他の一般書も売れます。お客さんは本がたくさん揃っている店を選ぶのですね。
 昭和48[1973]年、第1次オイルショックが襲ってきました。トイレットペーパーがなくなると、大騒ぎになりましたが、紙を扱う出版界も大変でした。私はその直後の入社で、紙の価格がどんどん上がり、同じ紙を一定量確保できない状況でした。その結果、同じ本でも、版を重ねると紙が異なっていて、並べると本の厚さが違っていることもよくありました。
【須長 文夫氏】

■9代目 種田 則一(昭和58[1983]年就任~平成2年[1990]年退任)

 種田は、「新電気」「OHM」「MOL」などの雑誌編集から、総務畑を経て社長に就任しました。このころ世間は、個人消費低迷、緊縮財政、世界的景気低迷に襲われましたが、出版界は空前の雑誌創刊ブームでした。なのに、売り上げはパッとしませんでした。当社も昭和57[1982]年に配当を30%から25%に引き下げ、同時に資本増強を図りました。
 昭和58[1983]年1月にオランダの「エルゼビア・サイエンス社」との間で社員1名を互いに研修派遣しあいました。また、西ドイツ(当時)の「シュプリンガー・フェアラーク社」との英文「NEW GENERATION COMPUTING」の共同出版や、「エルゼビア」と提携による「MICROELECTRONIC ENGINEERING」の創刊など、国際交流を進めました。
 この年「現代電気工事体系」(全46冊)を刊行しました。翌年の創立70周年の記念特別企画でしたが、予想以上に売れ、経営に大きく寄与してくれました。また、21世紀に成長・発展すると予測される伝統技術の中から、今日的課題を約100テーマ選んだ「新OHM文庫」を出版しました。このシリーズは電子化組版を採用、制作しました。62[1987]年には電子出版開発室を開設、新時代への対応を進めました。
 平成元[1989]年には隣接の商品倉庫を解体、オームビル新館を建設。本社ビルと渡り廊下でつなげました。また、埼玉県朝霞市に商品倉庫2棟(総床面積約1,200坪)「ブックセンター・オーム」を稼働しました。
【種田 則一氏】

■10代目 佐藤 政次(平成2年[1990]年就任~平成20年[2008]年退任、平成24年[2012]年没)

 佐藤は昭和24[1949]年の入社で、半世紀以上をオーム社に尽くした人物です。大変な努力家で、企画・編集に活躍しました。大学の先生のところに足しげく通い、著者を開拓しました。その中で公害防止管理者の国家試験(昭和46[1971]年)が行われることを聞きつけ、関連した「公害防止管理者試験問題解答600題」など環境関係の本にいち早く取り組み、ヒットを飛ばしました。
 46歳で取締役に就任し、取締役最高顧問職まで計31年間の長きにわたり、経営幹部を務めました。
 ちょうどパソコン書の出版バブルの時代でした。当社は若干出遅れましたが、“何をやってもいい”開発部を設置、まずパソコン関係書に乗り出し、売り上げに貢献しました。
【佐藤 政次氏】
【平成3[1992]年完成の新館】

■11代目 竹生 修己(平成20年[2008]年就任~平成26年[2014]年退任)

 昭和46[1971]年に入社、佐藤社長のもとで、国際活動の名代として海外展開に活躍しました。昭和58[1983]年にドイツ・フランクフルトのブックフェアにブースを出展し、海外の出版社との交流が盛んになりました。出版文化国際交流会の会長、工学書協会幹事長を務めました。
【竹生 修己氏】
【フランクフルトブックフェアブース】

■12代目 村上 和夫(平成26年[2014]年就任~ )

 私は昭和50[1975]年の入社です。営業に配属されました。当時出版界は盛況で、売り上げが前年比2ケタ伸びないと、「何やっているんだ」とどやされました。売り上げのピークは平成8[1996]年頃です。
 38歳の時に編集へ異動しました。編集部門に、「あれ作れ」「これだめだ」などうるさく “注文”を言ってばかりいたのを当時の佐藤社長が見ていたのでしょう。社内ベンチャー的な編集部門に異動し、主にコンピュータ関連書を作りました。本の企画を立て、原稿を入手し、編集し、著者と膝を突き合わせて原稿を磨く作業は、大変な苦労もありましたが、本として世に出て売れた時の喜びはひとしおでした。8年後に営業に戻りました。営業に戻ってみると、より出版業界全体が俯瞰できるように感じました。営業は付き合いが広く、書店、販売会社、また他社の社長さん達などと交流する機会も得られ、情報量が多いからです。編集で経験した本作りは貴重な経験となっています。
 昨年春、女性の新入社員を3人採用しました。まず1週間朝霞の倉庫で、次いで2週間、新宿の紀伊國屋書店さんのレジで研修をさせました。レジで研修するといかに自分の会社の本が売れないかわかります。研修レポートを見ると、とても良い経験だったようです。1年先輩からも中堅からも「自分たちもやりたかった」との声が聞こえてきました。「商品を覚える」「売る大切さを知る」が大事です。入社してすぐ立てた企画はなかなか売れません。
 今後、新入社員は編集志望者も、まず営業へ配属したいと思います。
 出版界は活字離れなどによる危機と言われています。しかし、1人当たりの読書率はあまり変わっていないとのデータもあります。紙版の書籍と電子書籍との軋轢が言われますが、このところ電子書籍と紙版書籍との価格が平準化されるようになっています。電子書籍は従来の書籍や雑誌のデータを利用できますが、フォーマットが多種あり、その制作には費用も時間もかかります。また、従来の紙版を選択するか電子版を選択するかは読者が決めることですので、出版社はそのニーズにこたえていく必要があると考えます。
 当社が扱う分野は、先端技術だけ追っても数が出ません。産業化技術への意識が出てから始めて大きな需要が出てきます。そのタイミングを計るのが腕の見せ所でしょうか。将来は、先端技術を取り上げた論文類は、Webや電子、そしてオンデマンドでニーズに応えていきたいと考えています。
 出版社には「出版会計」というのがあります。在庫として倉庫に残っている分は売れなくても「資産」です。売れ残りは最終的には裁断されますが、その費用はリスクです。見かけは10%の利益が出ても、廃棄すればあっという間に利益が消えてしまいます。利益の大きさをこの廃棄するかどうかで左右できます。逆に言えば、売れない本でもどんどん出して、倉庫に保管すれば、「資産」として扱えるのです。ここをどう見るか出版社にとっては大事なことです。私が社長に就任してから、直接財務・経理を見ています。
 現在、年間200点以上の新刊を発行しています。現在従業員80名余の所帯です。これからはかつてのような“栄光の時代”の発想ではやっていけません。今後は分野や読者対象を特化していく必要があるでしょう。全ての産業で電気が必要なくなることはありません。電気、電子、通信、情報など、当社の原点に立ち返り、しっかり取り組んでいきたいと思います。もちろん、それ以外にも、工業高校向けの文部科学省検定教科書、そしてビル・工場管理の月刊誌「設備と管理」、ロボット総合情報誌「ロボコンマガジン」も高評価を受けており、この分野も大切に育てていきたいと思います。
 
――オーム社は私が籍を置いていた毎日新聞社に近いこともあり、1階の書店をよくのぞいた。棚には私には難解なコンピュータなど最先端分野のものと同時に、かなり早い時期から水車発電など再生エネルギーの本があった覚えがある。日本では今、経済の再生に向け様々な試みが行われている。ものづくり復活もその一つだが、そのためには先端研究と同時に産業化の視点と、若い人々に関心を抱かせ、その技術を習得させる機会が必要だ。オーム社の歩みがそれを示していると思えた。
【村上 和夫氏】
【画像左:ロボコンマガジン、画像中央:電気と工事、画像右:OHM】
●株式会社オーム社
千代田区神田錦町3-1
電話:03-3233-0641(代表)
http://www.ohmsha.co.jp/

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