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百年企業のれん三代記

神田で三代以上のれんを守ってきた老舗にスポットをあて、初代から現在に至るまでの歴史を写真と文章でご紹介します。

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第51回 大洋電機株式会社

お話:3代目 山田 信三さん (記事公開日:2019年 3月11日、文:竹田令二)

■はじめに

――日本を代表する大企業で、検査不正、不正経理などが続いている。個々のケースにはそれぞれの事情はあるだろう。事後の対策を聞いても、何かしっくりしない。多分「企業哲学」が見えないからだろう。大洋電機には創業者の「三」の哲学が生きている。

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震災前の三立社山田商店。中央が初代の壽二氏

【】

■初代 山田 壽二(ひさじ)(1888[明治21]年生~1965[昭和40]年没)

 愛知県田原町野田の生まれです。今の田原市渥美半島の町です。江戸時代には渡辺崋山が家老職をしていた田原藩だった土地です。生家はあまり豊かではない農家でした。母から「爺ちゃんが可愛がって、よく遊んでくれていた」と言われますが、本当に、遊んでもらったというくらいしか覚えていません。まぁ、父だって会社人間で、さらにその上です。「雲の上の存在」でした。
 高等小学校を出て、成績もよかったので、町立の補習学校「成章館」に進学させてもらいます。先の進路に悩んでいるときに、村のお医者様の弟さんから東京行きを誘われ、すべて自活することを条件に許され、15歳で一緒に上京、神田錦町1丁目の裏長屋に居を定めました。以来、住まいは世田谷に構えても戸籍は神田のままでした。小さな印刷屋さんに世話になりましたが、勉強はままならない生活でした。その苦境に、司法省の給仕、のちに最下級の職員「雇」を世話され、夜学通学の条件が整い、東京物理学校(現東京理科大学)に入学を果たしました。皆、人様の縁からです。
 この学校は、入学は簡単に許すが、進級は難しく、落第がけたはずれに多いことで有名だったそうです。働きながら授業料も出さなければならないので、貧乏生活でノートも買えないほど。反古紙を綴じてノートにしていたそうです。5年かかって卒業し、横須賀の海軍工廠に工手として雇われます。
 海軍工廠では無線電信研究所で木村駿吉技師の助手となります。木村技師は日露戦争の日本海海戦で「敵艦見ゆ」を打電した「三六式無線電信機」の事実上の発明者で、この出会いから、運が開けていくのです。後年祖父はこの「三六式無線電信機」を復元製作し、横須賀記念公園の記念艦「三笠」に寄贈しました。
 祖父は人と人とのつながりを大切にしました。残した随筆にこんな文章があります。
「私の体験によると人を信じて損害を蒙ったり、迷惑を受けたことも度々ありますが、永年を通算して観ると人を過信して受けたマイナスよりも先方を相信じて外部から寄せられた行為によるプラスの方がはるかに大であることを感謝しているのであります」。
 海軍工廠の仕事で中国の旅順に行った時、体を壊し、帰国後職を辞し、郷里に帰りました。しかし、半年ほどで再度上京、1913[大正2]年に銀座で特許を取った注水式乾電池の研究所を開きます。1916[大正5]年には電気器具製造販売に乗り出します。五反田に工場を、神田に店を持ちます。この年に結婚しています。松下幸之助さんが電気ソケットの製造を始めた頃です。祖父も電気に関心が高かったようです。翌年に照明器具の「山田三立社」を設立します。「三立」とは「造る人、売る人、使う人の三者が協調調和し、互いに限りなく繁栄していく」という祖父の理念です。のちに大洋電機の社長を退いた後に設立した「三信船舶電具」命名も同じ考えです。
 1923[大正12]年、関東大震災で、神田の店舗は全焼しましたが、五反田の工場は無事でした。この震災後の区画整理事業にかかわるようになり、地域への貢献にも関わっていきます。1929[昭和4]年には町会長に就任、以後長く務めます。区画整理事業は所用者の利害が絡み合う世界です。そのもつれをほどき納得してもらう根気のいる仕事です。まだ40歳そこそこだった祖父は区画整理補欠委員として7年間にわたって尽力、のちに感謝状をいただいています。1960[昭和35]年に、「史蹟将門塚保存会」を結成、初代会長にも就任しました。
「後の」本業である漁業用発電機への進出は1933[昭和8]年に、向島にあったモーター修理と漁業用小型発電機を作っている町工場の主が急逝、若干の債権のあった祖父に未亡人から処理を依頼されたことでした。2年ほどで、再建し引き渡したのです。その間の経験から船舶用発電機が将来、極めて有望であることを知り、山田三立社の事業に漁業用小型発電機が加わり、設備も一新して船舶用発電機の製作となったのです。集魚灯というものは当時は蓄電池を使ったものがありましたが、小規模でした。それを「コンパクトで、湿気と動揺に堪え、しかも機械操作に慣れていない漁師さんにも間違いなく操作できるものを」と祖父はいろいろ考え、独自のものを開発していったのです。しかも、当時、毎月2回日帰りで東海道線の辻堂から熱海にかけてのお得意様回りをしていました。それは一番列車で出かけ、終列車で帰ってくる、というものでした。
 おかげでようやく安定経営になり始め、1939[昭和14]年ころに同業他社にもかなりの受注があったのですが、戦争の影が忍び寄ります。資材不足です。祖父は同業他社に呼びかけ業界組合を結成し、農林省を動かし、打開しようとしました。1941[昭和16]年秋に「漁船電機装備組合」が発足しましたが、農水省の力の及ぶところではなく、組合は国の計画造船の一部を請け負い、生き延びることになりました。さらに、電気機械統制会会長(当時の安川電機社長 安川第五郎氏)から説得され、1943[昭和18]年末に他2社と合併、大洋電機が設立され、祖父が社長に就任、翌年、岐阜県の笠松町に工場4棟、事務所、倉庫など建坪約1000坪の新工場が完成しました。今の岐阜工場です。
 戦争中はこうして生き延びた格好ですが、工場も一部被災しましたし、東京の事務所は全焼しました。そして終戦。もとの漁業用小型発電機の仕事に戻りました。1949[昭和24]年に社長の座を譲り、相談役に就任、一方で神田で「三信船舶電具」を設立しました。船舶用の電具を調達して取りまとめ一括納入する会社です。大洋電機は工場長だった杉山力之助さんが後を継ぎ社長に就任、その後、1955[昭和]30年に、父が社長に就任しました。

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壽二氏

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店の前に製品を並べた三立社山田商店。震災後の昭和3年頃(画像左)、昭和25年ころの岐阜工場正門(画像右上)、将門塚に詣でる壽二翁(画像右下)

【】

■2代目 山田 澤三(たくぞう)(大正13[1924]年生~平成30[2018]年9月16日没)

 父で、三男です。後継ぎは次男の洋三と、みな思っていました。でも、その伯父がマリアナで戦死し、お鉢が回ってきたのです。終戦当時は陸軍の赤坂の連隊にいて、少尉でした。それがいきなり「専務」。戦争が終わり、軍関係の仕事から本来の漁船用の発電機の製造販売に戻りました。宮城県の気仙沼から三陸海岸を電機店を探しながら、御用聞きのように歩いたそうです。注文を頂き、納期が迫っていたときは、電動機を社員と2人で担いで届けたこともありました。
 工場は岐阜、会社は東京、東海道線の特急「つばめ」で名古屋経由で6~7時間もかかった時代です。大変な苦労だったと思います。私が入社して、工場で会うたびに、「品質が基幹」と言われました。「コストダウンより品質」と。世界中にうちの製品を乗せた船が走っているのです。万一事故があったら大変です。
 漁船用の発電機は扱う人は漁師、電気については専門家ではありません。それに海の男、荒っぽく扱いがちです。“丈夫で長持ち”が祖父からの伝統です。トラブルが起きたら「まず直すことが先」。お金のことはそのあと。大学は法大の経済ですが、経営者としては技術系に近い考えです。慎重でいながら、腹が座っており、判断は大胆でしかも早かったですね。「現場第一」「工場大事」現場力第一主義です。私も見習っています。
 父の社長時代、1960[昭和35]年は大洋電機にとって飛躍の年でした。工場の近代化・合理化に踏み切り、売り上げはこの年から急上昇しました。また、この頃から外国からのお客様が工場をたびたび訪れるようになりました。1956[昭和36]年インドネシアから大統領官邸内の迎賓館の自家用発電機の発注があり、大統領官邸の噴水までうちの製品を使っていただきました。また、この頃父は東南アジアや欧米視察を重ね、世界へと飛躍していきました。
 1974[昭和49]年にジャカルタ事務所を、2年後にはニューヨーク、アブダビでも開設。4年後の1980[昭和55]年には韓国釜山にKTエレクトリック(現 KTE社)を設立しました。現在海外事務所は釜山、上海、シンガポールですが、サービス代理店は11カ国、12都市にあります。国内事業所も、岐阜県の岐阜工場を中心に、岐阜羽島、可児、山徳の4工場、群馬県伊勢崎に3工場と父の社長時代に拡大しました。
 1966[昭和41]年4月には神田錦町3丁目に、地上7階地下1階の本社ビルが完成しました。その翌月、祖父が永眠しました。勲4等旭日小章綬章をいただき、3日後のことでした。
 父は「本当は小説家になりたかった」のです。10年位前まで社報の巻頭言を書き続けたのも、そんな血のせいでしょうかね。性格的にはざっくばらんだし、話好きで、ロマンチストです。囲碁や将棋にも熱心ですし、地下の食堂をサロン化し、電動麻雀卓を寄贈したりもしています。
 父も祖父同様、業界や地元町内会のお世話役や、神田明神さんの総代も長く務めました。業界を良くしないと自分の会社が良くならないという考えですから、業界団体の先頭に立ち、努力しました。街のことでもそうです。
 祖父の時から神田明神の総代をさせていただいていましたが、父も高齢で⼀線から引退したこともあり、一昨年の5月1日に名誉総代に就任のお話があり、私が代わりに総代を務めさせていただくことになりました。
 父は工場に勤めていた母と結ばれました。母の実家は岐阜工場のある笠松の繭問屋です。私も入社して岐阜工場で6か月間研修した際には、実家に泊まっていました。両親と兄弟それぞれの住まいも歩いて2分ほどしか離れておりませんでしたので、朝に突然、父が玄関に立っていて、びっくりさせられたこともありましたが、昨年(2018年)9月16日に亡くなりました。

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澤三氏

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漁業用直流発電機(昭和20年)(画像左上)、岐阜工場全景(画像左下)、神田錦町の旧本社ビル(2016年に売却)、現在内神田の本社ビルは建替え工事中(画像右)


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■3代目 山田 信三(1949[昭和24] 年生~ )

 私も父と同じ文系の人間です。大学は成蹊大経済学部で、4年間ヨット部でした。1972[昭和47]年春に卒業後、3年間米国に行かせてもらいました。語学習得もありましたが、私は別世界をのぞかせてもらったことで、父に感謝しています。渡米中に大学時代に知り合った妻と向こうのお寺で日本式の式を挙げました。結婚後知って驚いたのですが、幼稚園が一緒だったんです。テニスや山登りが好きだったんですが、突然の脳腫瘍で、2015[平成27]年8月に亡くなりました。
 1975[昭和50年]に帰国すると、いきなり、「お前は取締役」。オーナー企業ならではの人事です。年上の先輩を部下にするのですから「こりゃ参ったな」という感じもありました。対外的にもプレッシャーでした。業界の会合に出てもなかなか相手にしてもらえません。「船舶営業部長」というのが肩書でした。韓国、インドネシア、香港などを回りました。韓国は近いし、年8回も行ったことがあります。当時は、造船会社と言っても小さな会社ばかりでした。
 1975[昭和50]年に現代造船が立ち上げられましたが、1990年後半まで造船では日本が世界1位でした。その後韓国が、次いで中国が力をつけ、今に至ります。現在、日本のシェアは約20%です。造船業界の動きは6~7年周期で変化しますが、中には目先を見て投機的に設備投資を行うところもあります。うちは、日本のバブル期にも無理をしませんでした。
 日本の造船業は問題を抱えています。造船不況でリストラが行われ、技術者が韓国へ流れていったのです。東大の船舶工学科がなくなり、専門教育をする教育機関がずいぶん減りました。人手不足も切実です。新技術開発だけでなく、職人の問題もあります。船を作っている厚板鋼板のカーブをつけるのは、専門の職人の腕です。また、プロペラの研磨も人手です。
 船の効率化というなら、気象状況を運行状況に反映させ、一番効率的な航路を選ぶなどITの技術の応用の研究も進んでいます。ただ船というものは一度納品すると20~30年は動き続け、その意味で、船主さんからの情報のフィードバックはあまりありません。次の製品づくりを画期的なものにするためにその連携が今後の課題です。
 この仕事は、お客様の信頼がないと出来ません。海外の船主さんは一旦信用してもらえたら、ずっと使ってもらえます。それに非常に厳しい検査が行われている世界です。材料でのコストダウンはやりにくいのです。他から参入が難しい世界です。簡単に利益の出ない世界でもあります。考えなければなりません。社員には「視野を広げろ! 世界には何があるかわからないぞ」とハッパをかけています。
 完全にグローバルな世界でもあります。世界各地で展示会があり、機器メーカー、船会社が参加します。世界中飛び回らないと世界の顧客を取り込めません。忙しいです。でも、売り上げ比率でみると、国内が6~7割、海外は3~4割です。国内で建造する船の発電機の半分くらいはうちが製品を納めています。
 近年では、シンガポールの業者と組んで、電装設計に乗り出しました。船の縦割りの世界はスペック(仕様)通りに作ればいいという発想です。これからは機器を連携させ、全体をコントロールしていくことが大事です。もうずいぶん前の話ですが、お客様からメインエンジンで回す軸発電機ができないかというお話がありました。そのままだと回転変動で周波数が乱れるのです。でも、お客様から言われたらやらなきゃなりません。こうして完成したサイリスタ方式の軸発電機は、1983[昭和59]年に1号機を納入してから10年で、100隻に納入しています。本当はお客様から言われる前に、我々が提案していかなければならないのです。
 今は配電盤など陸上で使う製品も売り上げの約3割あります。米国向けのプレジャーボーhttp://mainehikingtoday.comト用発電セットは、岐阜の可児工場で月に150台くらい作っています。45人くらいのパートさんが細やかな手仕事をしてくれています。
 厳しい時代ですが、次の世代に向け社員一同が進んでいけるビジョンを描いていきます。世界は広いんです。世界の中でどうなのか、社員が感じてくれればと思います。長男・沢生(たくお)は国内を含め営業本部長です。この名前は父が私のために考えてくれたのですが、祖父が「信三」を用意していたので、息子に譲りました。多分、祖父は自分の会社に「三立」「三信」とつけたように、「三」に思いを込めてくれていたのだと思います。
 
――初代の事績・人生を綴った「山田壽二伝」は大洋電機創立35年記念に1979[昭和54]年に刊行された。企業の本としては非常に読みやすく、面白い。編集委員の皆さんがそれだけ初代の考えを理解し、体得しているからだろう。それが会社のエネルギーになってきたのではないだろうか。

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信三氏

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サイリスタ式軸発電機1号機(画像上)、壽二氏自筆の「五訓」(画像下)

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●大洋電機株式会社
本社:千代田区神田美土代町1-1 住友商事美土代ビル9F
電話:03-3293-3061
http://www.taiyo-electric.co.jp/

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