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神田資料室

KANDAルネッサンス 99号 (2014.06.25) P.16〜21

【寄稿】神田のおける都市空間の継承と変容

岡本 哲志(法政大学法政大学デザイン工学部建築学科教授)

はじめに
 徳川家康が入府した天正18(1590)年ころ、神田周辺の地理的環境はどうだったのか。本郷台地が北から南に迫り出し、台地の西側に位置する小石川が途中平川(上中流神田川)と合流して日比谷入江に至り、台地の東側を石神井川が直接内海(東京湾)に流れ込む。日比谷入江に注ぐ平川河口一帯は、現在将門塚のあるあたりから駿河台付近まで、古くから広く「神田」と呼ばれる土地だった。神田の地名については幾つかの推論がある。そのなかで、平将門との関係で神田の名がつけられたとする説。最初に将門が埋葬された相馬郡にある神田山(からだやま)から、将門の乱(935〜41年)以降迫害を受けた一族が柴崎村にある安房神社境内に埋葬し直した。
 この神社が後に神田明神と名を変え、周辺の土地も神田となった説で、本論ではこれを押したい。他に、伊勢神宮の御田(=神田)、円覚寺の領田があったことから神田の地名がついたとの説もある。これらが重層的に織り成すことで、「神田」という地名は定着したかもしれないが、この地に生き続けた人たちの伝承として考えた時、名を伝え続けるインパクトに欠ける。
 本郷台地の東斜面上にある神田明神は、天平2(730)年に安房神社の分霊を祀ることからはじまるとされ、現在も紋が水の渦を示す「流れ巴」である。最初に鎮座した場所は現在の将門塚付近(現在の大手町)だった。だが、江戸時代初期の都市計画において、大手町が大名屋敷に変貌していくなか、神田明神は移転する。まず慶長8(1603)年に駿河台下の斜面地へ、さらに神田川の開削整備(元和6年)に伴い、元和2(1616)年には現在地へと遷座した。神田の街は、開削された神田川に隔てられながらも、台地上に鎮座する神田明神に見守られるかたちで、街が発展、成熟して今日に至る。
寛永期の神田
 寛永期、江戸の人口は40万人強だった京の都に及ばないとしても、20万人前後の大坂に匹敵する人口に膨れ上がった。これらの人口を支える人やものの流れが日本列島規模で江戸に向けて動き出す。寛永期(1624〜45年)が終わるころには、江戸の骨格をなす内濠・外濠の整備が終わる。寛永20(1643)年まで遡るとされる「寛永江戸全図」は、旧河川の痕跡を残しながらも、土地利用が一段落した様子を描く(図1)。 現在の神田エリアに目を向けると、武家地と寺社地の占める割合の多さが目につく。神田エリアの西側はほぼ武家地であり、東側の神田川沿いの一帯は武家地のほか寺社地が多くの土地を占めた。町人地といえば、日本橋から北に延びる中山道沿いが中心で、日本橋エリアに近づくにつれ町人地が面的に広がる程度だった。
 神田エリアを示す古地図には、寛永期を描いた「寛永年神田全図」がある(図2)。この地図は町との境界が詳細に示されており、町を構成する仕組みがわかる。江戸の町人地は道とそれを挟む両側のブロックがワンセットになり町を構成する。これを「両側町」といい、町人地の基本的な形態をなす。江戸の中心に近づくと、町人地は会所地を中心に持つ方形の「井字型街区」が面的に広がる。神田エリアにも、中山道沿いに「井字型街区」が見受けられる。方形の「井字型街区」は、街道沿いなどに見られる線的な町の構成と違い、4面に町が成立する。従って、道の重要度によって町にヒエラルキー(ブロックのランク)が生じる。これらのブロックを道の重要度が高い順に、メインブロック、セカンドブロック、サブブロック、ラストブロックと名づけることにしたい(図3)。この街区内におけるブロックのヒエラルキーを分析することで、逆にどの道が重要であったのかを判断できる。この視点で、今一度寛永期の神田の町人地を眺めることにしよう。神田エリアには、日本橋を基点として北に延びる五街道の一つ、中山道が通る。中山道沿いのブロックには、鍛冶町の名が見え、賑わう通り沿いに職人の町がつくられていたとわかる。また、筋違い御門近くには連雀町という名があり、行商人が集う町場でもあった。日本橋寄りの町人地と異なる雰囲気が伝わる。この往来の激しい街道が最も強い軸性を持つかと思われるが、実はそうではない。神田エリアの東南側境界線上を江戸城に向かう道が通されていた。この道と中山道が交差する街区内のブロックを確認すると、そのメインブロックは、本町通りとともに、中山道と直行する、江戸城へ向かう日本橋と神田の境界にある道に面して配されていた。
 この道が中山道よりも強い軸性を示しており、寛永期の江戸は江戸城への求心性を強く意識してつくられたとわかる。ただ、この道を除けば、中山道沿いにはメインブロックがすべて面する。次に、これら2つの強い軸性を持つ道から内側に入った裏の道はどうか。中山道の東側と西側のエリアでは異なる。中山道の東側は城に向かう道と平行の道に沿いセカンドブロックが形成される。それに対し、中山道の西側は中山道の裏側に平行に通された道沿いがセカンドブロックとなる。この裏側の道に面したブロックには大工町の名があり、また中山道から奥に入る横丁沿いには職人たちの居住する、鍋町といった町場があった。街道から一歩裏側は小商いの店や職人の仕事場の拠点だった。

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図1 寛永期江戸の土地利用と主な大名屋敷等

寛永期の江戸。「寛永江戸全図」(寛永 20(1643)年、臼杵市教育委員会所蔵)をもとに作成した江戸の土地利用。
図2 現在の神田エリアにおける江戸寛永期の土地利用と地形

寛永期の神田の土地利用。天保 5 年、「寛永江戸図」(寛永 9 年製作の『武現在の神田エリアにおける江戸寛永期の土地利用と地形州豊島郡江戸庄図』)をもとに作成された神田の土地利用。
図3 4つのヒエラルキーをもつ街区内ブロック

街区内ブロックのヒエラルキー。「井字型街区」には、道の重要度によって町にヒエラルキー(ブロックのランク)が生じる。

明暦の大火とその後の神田(江戸中後期)
 80日以上も雨が降らない3月初旬、北西の風が強く吹くなか、江戸で大火が起きた(図4)。明暦の大火である。火元は本郷、小石川、麹町の3ヶ所。1657年3月2日(旧暦・明暦3年1月18日)から3日間燃え続け、江戸の大半を焼き尽くす。特に神田は、最初の出火元である本郷丸山の本妙寺から発した火の手により、大きな被害を受けた。明暦の大火は徳川幕府にとっても大きな衝撃だった。大火の後、江戸では大規模な都市改造が試みられた。江戸城近くでは、内濠内にあった御三家の上屋敷が外に出され、その跡地が吹上御殿となる。延焼を意識して広い芝の庭がつくられるとともに、玉川上水(1654年完成)の水をふんだんに取入れた大きな池が設けられ、避難場所の確保がなされた。北からの火災の備えには、雉子橋辺りから神田橋にかけて、濠外側一帯の広大な武家地を火除地とし、延焼をくい止める策が講じられた。
 町人地でも変化があった。江戸城に向かう軸性の強い道は龍閑川(1658年)が明暦の大火の翌年に開削され、浜町川も龍閑川と接続するように延伸開削された。これらの掘割は、火災の延焼防止の役割と同時に、拡大する町人地へ船による物資輸送の利便性を高める狙いがあった。龍閑川・浜町川沿いには河岸が設けられ、神田川沿いにも火除けのための土手が築かれた。ただ、明暦の大火以降も江戸の人口流入が際立つ。右肩上がりの人口増加は江戸中期に百万の大台へと達した。天下太平の世の中、京や大坂をはるかに凌ぐ巨大都市化が進行する。武家地を確保するために、江戸の市域は外縁に拡大した。武家人口を支える商人や職人などが住む町人地にも、江戸の中心部に受け皿としての余地をつくる必要があった。その格好の地が現在の神田エリアだった。武家地、寺社地を郊外に移転した跡地に、町人地の用地が確保された(図5)。特に中山道の東側は武家地、寺社地の町人地化が激しかった。神田川以南では、寛永期以来上屋敷を置き続けられた大名はわずかで、谷田部藩細川家上屋敷と仁正寺藩市橋家上屋敷だけである。寺院はすべて姿を消し、その大半が町人地、一部が旗本屋敷、組屋敷に変わった。神田川以北に目を向けると、神田明神を除けば、寺院は東本願寺をはじめ神田川以南と同様にすべての寺院が姿を消す。武家地は、伊勢津藩藤堂家が中屋敷としていた土地を上屋敷に、あるいは大名の屋敷替えによる変化が見られたが、大名屋敷の敷地規模それ自体は維持された。それでは中山道の西側はどうか。寛永期町人地に囲まれていた佐竹修理(出羽久保田藩主)の土地が町人地になるなど、この周辺では武家地から町人地への変化が見られたものの、中山道東側に比べ、全体的に町人地の拡大はさほど目立たなかった。次に、明暦の大火以前から町人地だったところはどのような変化が見られたのか。中山道沿いの井字型街区内には、中山道と平行するように、京間20間内側に新道(裏通り)が新設された(図6)。新しく道を裏に通すことによって、表側の通りだけだった店が裏側にもでき、賑わい空間が幾重にも面的に連なる(図7)。

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図4 明暦の大火の焼失エリア

本郷、小石川、麹町から発生した火は3日間燃え続け、江戸の大半を焼き尽くした。
図5 神田における寛永期と江戸後期の土地利用比較

明暦の大火以降の神田は、武家地、寺社地を郊外に移転し町人地の用地を新たに確保した。
図6 町屋敷の概念比較

明暦の大火後、中山道の裏側にそれと平行するように、新道(裏通り)が新設された。
図7 現在の神田エリアにおける江戸後期の土地利用と地形

江戸後期の神田。神田の町人地は、新しく道を裏に通すことで、町の賑わいが面的になる。

明治の息吹が勃興する神田(明治初期)
 大政奉還後、明治天皇は明治2(1869)年に京都を発ち、江戸城から名を変えた東京城(現・皇居)に移る。無血開城した江戸とはいえ、政治体制が未熟な明治初期、明治天皇が居住する東京城の警護は緊急を要した。大手町、丸の内、霞ヶ関といった大名上屋敷の集中するエリアが軍の施設に変わっていく。また、欧米の仕組みを取り入れた官や教育の施設もやはり東京城の周辺にあった幕府用地と大名屋敷が転用された。
神田エリアの境界あたりには、軍をはじめ官や教育の施設が数多く立地した(図8)。大手町から時計回りに神田エリア周辺を見ていくと、大手町には、印刷局(出羽鶴岡藩酒井家上屋敷、越前福井藩松平家上屋敷)、大蔵省(播磨姫路藩酒井家上屋敷)、陸軍軍馬局(一橋家上屋敷)、文部省(幕府の御用屋敷、御舂屋)が江戸時代の幕府用地や大名上屋敷を利用して設置された(図9)。日本橋川を挟んだ対岸の神田エリアには、学習院、東京大学、東京外国語大学が並ぶ。こちらは主に、明暦の大火以降に火除地だった場所である。東京大学の前身、洋学の研究・教育機関として成立した開成学校は、江戸幕府の二番明地の一部、三番明地がそのまま利用され、後に東京大学となった時、周辺の武家地、上野安中藩板倉家上屋敷と飯山藩本多家上屋敷を取り込むかたちで敷地が広げられた。
江戸時代の古地図を眺めると、日本橋川は堀留にされており、神田川とつながっていなかった。明治初期も同様で、堀留された土地も含めた三崎町に陸軍練兵場が置かれる。この練兵場の東半分は、江戸時代伊予今治藩松平家上屋敷があり、西側上4分1は高松藩松平家中屋敷だった。この2つの大名屋敷を中心に取りまとめるかたちで陸軍練兵場が明治初期に誕生した。神田川を挟んだ北側は御三家の水戸家上屋敷があり、その土地は砲兵工廠第一砲兵方面が使う軍施設となった。東側に位置する隅田川の方に神田川を下ると、北側の台地上、湯島聖堂の敷地半分ほどに東京師範学校、その西隣に東京女子師範学校が幕府の昌平坂学問所の敷地の一部を利用して建つ。さらに川を下ると、筋違い御門の場所に租税局出張所、和泉橋付近の土手に和泉橋警察署が置かれた。神田川の北側にあった伊勢津藩藤堂家上屋敷には東京府養育院ができ、隣接して第二医院、衛生局試験所など医療・衛生関連の施設が立地する。また、駿河台、および駿河台下では、明治天皇とともに京都から移ることになった宮家の人たちが主に旗本屋敷の跡地に住まう。初期の宮家は広大な土地と屋敷を賜ったわけではなかった。このように、神田エリアの境界あたりには多くの近代施設の立地が目立ったが、その内側の町人地となると江戸時代と変わらぬ環境が維持され続けた。

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図8 江戸時代の大名屋敷と明治初期の主要施設の立地比較(土地利用の変化プロセス)

官や軍の施設分布。幕府用地や大名屋敷の土地を利用して、軍用地などの公共施設が皇居周辺を取り巻く。
図9 江戸後期の土地利用と明治初期に出現した施設

江戸後期の土地利用と明治初期に出現した施設。江戸時代火除地だった広大な土地には、学校が集中的にできた。

道路拡幅による市電の開通と鉄道の敷設(明治後期から大正期)
明治10(1877)年に西南の役が終わり、明治帝国憲法が明治23年に発布される頃までには、日本国内の情勢が安定する。軍が皇居を守護する意味も薄れる。また、官営で出発した製鉄やセメントなどの近代産業も民間に払い下げられ、産業基盤が民間主導で発展しはじめる。東京の都市改造も、明治20年代に入ったころから市区改正事業が街路整備を主体に具体的に進められていく(図10)。軍施設の郊外移転は、神田の土地利用にも変化をもたらした。三崎町の陸軍練兵場は三菱に払い下げられ、劇場などを誘致した近代都市計画によるまちづくりが試みられた。
方、江戸時代を通じて堀留となっていた日本橋川の上流も開削され再び、神田川と結ばれる。河岸には水陸の物流拠点となる飯田橋貨物駅が設けられた。その後、鉄道路線は飯田橋からさらに延伸され、万世橋まで至る。明治45(1912)年に営業を開始した万世橋駅が中央本線の終着駅として位置付けられた。江戸時代の筋違い御門の賑わいが新たなかたちでよみがえる。神田川の北側では、万世橋と和泉橋に挟まれた、江戸時代町人地だった広大な土地が秋葉原貨物取扱所となり、東北、北陸方面から運ばれてくる物資の集散基地となった。
L字型の入り堀も新しく掘られた。これは東京都心部への舟運輸送を視野に整備されたものだ。神田エリアとその周辺には、これで3つの水陸の物流拠点が整備されたことになる。神田エリアの内側も、整備が進められた。路面電車(市電)の敷設のために、街路の拡幅が目立つ。新たに拡幅された街路が万世橋駅前の広場から神田市街に延びる。拡幅された後には市電が敷設された。明治37年に数寄屋橋―神田橋間の市電の開業を皮切りに、次々と路線が開業した。須田町―万世橋間は1系統をはじめ6つの系統の市電が走った。上野方面から万世橋駅の前を通り、駿河台の台地下から、九段下方面に抜ける街路も拡幅され、10系統など複数の系統の市電が行き来する。駿河台下から大手町方面には、2つの街路が拡幅され、市電が通された。東側の街路が日比谷通り、西側の街路が後に内堀通りにつながる。
他にも明治40年時点ではまだ市電が通されていないが、街路の拡幅だけがなされたケースも見られた。その後の明治43年には、13系統と21系統の市電が走ることになる。上野方面から、和泉橋を通り日本橋方面に抜ける南北の街路は、神田エリアにおいて一部江戸時代の町人地を縦断するかたちで新たに整備された。一般的に、土地の権利が細かく複雑な町人地は、街路の新設はあまり見られず、武家地だったところに通すことが多い。したがって、この神田エリアのケースは珍しい。ただし、明暦の大火以前の土地利用まで遡ると、このケースの場合も多くが武家地や寺社地であった。
 道路の整備は、以上のような主要な幹線街路の整備だけではない。かつての幕府用地、武家地を中心に、裏通りが新設整備された。神田エリアでは、一ツ橋から神田橋にかけての日本橋川東側一帯がそれにあたる。例えば、東京大学の移転後には、細かく道路が通され、宅地化された。
 大正期に入ると、鉄道が新たに敷設され、神田エリア内が大きく変化する。明治期まで、終着駅だった万世橋駅は、中央本線が東京駅まで延伸されたことで旅客用のホームが廃止され、舟運と連動した貨物駅の機能も後に閉じる。貨物の終着駅として重要な役割を担ってきた秋葉原駅は、東北本線が東京駅まで延伸し、総武線も隅田川を越え両国駅と結ばれ、これらの鉄道路線が交差する旅客駅としての機能を高める。ところで、延伸した高架鉄道は神田エリアのどこに通されたのか。東北本線は、江戸建設初期に計画的に整備された町人地を斜めに切断するかたちで敷設された。江戸初期段階の都市空間の仕組みがここに来てさらに大きく崩れる。

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図 10 街区と都市基盤の変化(江戸時代後期と明治 40 年代の比較)

江戸後期と明治後期の土地利用比較。明治 20 年代に入ったころから、市電を通すための拡幅や新設の街路整備が目立つ。

関東大震災と街路の整備(昭和初期)
 大正12年9月1日正午少し前、関東に巨大地震が発生した。東京の場合、地震被害というより、その後に多発した火事が東京市街を火の海とし、多くの人たちの命を奪う(図11)。神田エリアで焼失を免れた場所は、神田川以北の秋葉原から美倉橋あたりまでのほんの一部にすぎなかった。神田エリアの人口は関東大震災以前の大正9年に15・2万人だった。その後復興した昭和5年に13・7万人まで回復したが、関東大震災以前より1・5万人も減少してしまう。さらに、昭和10年から神田の人口は再び減少する。商人・職人の町として、職住が一致していた環境が崩れはじめる。
 関東大震災で焦土と化した神田エリアに、帝都復興計画で何本かの幹線街路が新しく設けられた(図12)。まず目につくのは、幅員44mの昭和通り。市街を貫くように新設された街路は南北方向に延ばされた。神田エリアでも、同様であった。また、東西にも靖国通りが隅田川まで延びる。この街路は神田川と平行するかたちで、少し内側を通る。かつて万世橋のたもと近くにあった交差点が100m東南に移動する。元の交差点は土地区画整理され、その姿を消す。市電もこの新しい街路に移され、万世橋付近はターミナルとしての機能を完全に失う。万世橋周辺の衰退とともに、神田は神田川との結びつきがひ弱化した。
 駿河台では、渓谷のような谷の神田川に聖橋が架かり、神田明神あたりから南に下って日比谷通りにつながり、南北方向の自動車交通の利便性が高まった。また、日比谷通りの東側にも新たな街路が通され、新しく架設された鎌倉橋を通り、大手町、丸の内に抜けられるようになる。
 帝都復興計画が終わる段階で、神田の都市空間の変化は一応一段落し、今日に至る。神田は、善くも悪くも変化しない時代をその後半世紀以上の間続く。賑わいをつくりだす場にとって、ある種の変化は必要である。しかしながら、変化すれば事足りるとはいかない。目先の変化は、かえって街を衰退させることになるからだ。

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図 11 関東大震災焼失エリア

神田エリアでは焼失を免れた場所がほんの一部だった。
図 12 明治後期と昭和初期の街区比較

神田エリアには、帝都復興計画により、何本もの幹線街路が新しく設けられた。
図 13 東京大空襲の焼失エリアと東京都心部の河川・掘割の埋め立ての変化

東京大空襲による焼失エリア。神田エリアは、4割ほどが東京大空襲による焼失から免れた。

おわりに(戦中戦後から現代へ)
 戦時中、B29による焼夷弾投下が昭和20年3月と5月に集中的にあり、東京は再び焦土と化す。壊滅的な状況にあった本所、深川に比べ、神田エリアは4割ほどが焼け残った(図13)。ただ、瓦礫処理のために、不河川とされた龍閑川、浜町川は埋め立てられてしまう。
 終戦後、神田エリアでは目立った基盤整備が試みられなかった。しかし、大きな変化としては、モータリゼーションの進展で、市電の廃止が相次ぎ、昭和40年代にはすべての市電が神田エリアから姿を消したことだ(図14)。広幅員の街路には、自動車が溢れかえる。東京オリンピックが昭和39年開催されることになり、慢性的な自動車の渋滞を解消しようと、主に河川・掘割を利用して、高速道路の整備が急ピッチで進められた。日本橋川の上には首都高速4号分岐線が首都高速5号線に接続して、神田川へと延びる。都心部で街路上を通る高速道路は、幅員44mの昭和通りに通された首都高速1号(上野)線である。神田エリアは、大正期に南北に通された高架鉄道に加え、首都高速道路によって地域を機能的にも、景観的にも分断されてしまった。
 最後に、平成元(1989)年の地図に、江戸後期の地図を重ねてみたい(図15)。150年ほどの間に、江戸時代の土地利用、都市をつくりだしてきた文脈とは異なる改変が大規模に成されてきたと気づく。確かに、自動車交通の面からすると、神田は便利になったといえる。だが、歩行者の眼差しからは、あまり歩きたくない街となっていた。
 ただ神田エリアには、創業百年を越す企業が数多く立地しており、神田のアイデンティティを支え続ける。そのなかに大企業はないものの、神田特有の職人の技が光る企業が目立つ。神田エリア内の全体像として、それらの企業の存在を把握してこなかった過去があるが、今その価値に気づき、掘り起こしが行われている。
 これからの期待を込めた展望としては、都市基盤整備によって街が寸断された都市環境をソフト・ハードの両面でいかに打破し得るかである。例えば、鉄道高架下の利用の再考が一つある。高架下に店が入ることは賑わいを演出する上でよいことだが、江戸から連綿と続く都市空間の文脈を断ち切る一翼を担ってしまっていることも確かだ。江戸時代の都市構造を再構築する高架下のあり方の模索が必要だ。ここに、歩行者目線でのまちづくりのポイントがある。次に街路に目を向けると、これほど広い街路が必要なのかと感じる。神田が通過交通を捌くエリアになってしまっている。歩く人にやさしい環境が望まれる。銀座での経験だが、歩道が道側に1・5m近く広がると、通りを隔てた反対側にある建物のファサードが驚くほど近づいて見える。銀座通りと西銀座(外堀通り)は約27m、銀座通りの歩道は片側5・5mである。首都高速道路の撤廃も視野に、神田の街路が人間のための都市環境として改善されることを望みたい。

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図 14 街区と都市基盤の変化(昭和初期と平成元年の比較)

街区と都市基盤の変化(昭和初期と平成元年の比較)。高度成長期にすべての市電が神田エリアから姿を消し、代わって高速道路が出現する。
図 15 街区と都市基盤の変化(江戸後期と平成元年の比較)

150 年ほどの間に、江戸時代と現在の街区構成に大きな変容があった。



  

岡本哲志(おかもと・さとし)
博士(工学)。岡本哲志都市建築研究所、法政大学研究員を経て、現在法政大学デザイン工学部建築学科教授。専門は都市形成史、都市論、都市計画。主著に、『「丸の内」の歴史』、『銀座四百年』、『江戸東京の路地』、『港町のかたち』など。

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